毛呂季光
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 1137年 |
死没 | 2006年 |
別名 | 藤原季光、通称:太郎 |
墓所 | 埼玉県毛呂山町 |
官位 | 豊後守 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 藤原北家小野宮流毛呂氏 |
父母 | 父:藤原仲光 |
子 | 季綱 |
毛呂季光(藤原季光)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・御家人。藤原実頼を祖とする上級貴族、藤原北家小野宮流、大宰権帥・藤原季仲の孫。武蔵国入間郡毛呂郷[1]の在地領主。毛呂郷に移り住んだのち、毛呂を名乗った。源頼朝の側近として二代に渡り仕え、一族は鎌倉時代から戦国時代まで生き抜いた。また、頼朝の母方とは縁戚関係であった。毛呂氏の子孫は、現在の群馬県や京都府など東西にわかれ今もなお続いている。
略歴
[編集]藤原仲光の子として誕生。
源頼朝の挙兵直後から近臣として仕え、頼朝が鎌倉に拠点を構えて新造した大倉御所へ移る儀式で、頼朝の馬の右に付いている。文治2年(1186年)、頼朝の推挙により豊後守に任じられ、准門葉に列せられる。文治5年(1189年)、奥州合戦に参加。建久2年(1191年)、建久6年(1195年)の頼朝上洛に供奉。建久3年(1192年)、永福寺薬師堂の奉行人を務める。
建久6年(1195年)正月に中条家長と喧嘩となり、双方の縁者が集まって合戦になりかけた。頼朝は和田義盛を派遣して仲裁させ、家長を出仕停止にし、季光を御所に召して「御家人らに対して戦闘を起こし、命を失うのははなはだ穏やかではない」と直々に諭している。騒動の原因は、季光は由緒により、頼朝の門葉に準じる家柄であったが、家長が八田知家の養子である権威を誇って無礼を働いたために、季光が咎めたという。この騒動により心経会が延期された。『吾妻鏡』での季光に関する記述は、建久6年10月に鶴岡臨時祭りで頼朝に供奉した記録が最後である。
子・季綱は頼朝が伊豆国の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け、建久4年(1193年)2月10日、武蔵国和泉・勝田[2]を与えられており、季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るものがあったと思われる。頼朝の死から7年後の1206年季光没すると伝えられ、子、季綱の後1200年後半から1300年初め頃、一部は京都に渡り丹後国の城主や荘園の領主となり、また神社の建立などにも携わった。武家の松田氏との婚姻関係もあったと記されている。西国京都に於いても頼朝に仕えた時代の季光の人格と功績が脈々と受け継がれていたのである。
脚注
[編集]出典
[編集]- 関幸彦・福田豊彦編著『源平合戦事典』吉川弘文館、2006年
- 毛呂山町立歴史民俗資料館『鎌倉御家人毛呂季光の活躍と末裔たち(毛呂山町歴史民俗資料館第18回特別展解説図録)』毛呂山町立歴史民俗資料館〈毛呂山町史料集第9集〉、2015年。