コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

毛内茂粛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛内茂粛
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文元年(1736年
死没 文化元年6月15日1804年7月21日
別名 茂長、有右衛門、宜応、弥藤太、左衛門、伯恭
主君 津軽信寧信明寧親
陸奥弘前藩
氏族 桓武平氏千葉氏毛内氏
父母 毛内義巧
茂幹石山雅朝
テンプレートを表示

毛内 茂粛(もうない しげとし)は、江戸時代中期の弘前藩士。

生涯

[編集]

宝暦8年(1758年)、父・毛内義巧が閉門となり、家督300石を継ぎ、手廻組。明和5年(1768年)に目付、明和6年(1769年)に諸手足軽頭となる。安永8年(1779年)に持筒足軽頭となり、天明2年(1782年)にお役御免となった。長男・茂幹に家督を譲り隠居した。

天明4年(1784年)、天明の大飢饉が発生すると、隠居の身ながら藩士の土着政策を発案し、10月11日に藩主・津軽信明に直談判した。深夜まで及ぶ談判は大きく感銘を与え、寛政4年(1792年)8月土着政策は実行された。その後、増館組水木村に土着した。屋敷は「拳長亭」「拳長館」と呼ばれた。積極的に農作業に励み、没するまで晴耕雨読の生活を続けた。菅江真澄などとも親交があった。

参考文献

[編集]
  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社