毛内茂粛
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 元文元年(1736年) |
死没 | 文化元年6月15日(1804年7月21日) |
別名 | 茂長、有右衛門、宜応、弥藤太、左衛門、伯恭 |
主君 | 津軽信寧→信明→寧親 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 桓武平氏千葉氏流毛内氏 |
父母 | 毛内義巧 |
子 | 茂幹、石山雅朝 |
毛内 茂粛(もうない しげとし)は、江戸時代中期の弘前藩士。
生涯
[編集]宝暦8年(1758年)、父・毛内義巧が閉門となり、家督300石を継ぎ、手廻組。明和5年(1768年)に目付、明和6年(1769年)に諸手足軽頭となる。安永8年(1779年)に持筒足軽頭となり、天明2年(1782年)にお役御免となった。長男・茂幹に家督を譲り隠居した。
天明4年(1784年)、天明の大飢饉が発生すると、隠居の身ながら藩士の土着政策を発案し、10月11日に藩主・津軽信明に直談判した。深夜まで及ぶ談判は大きく感銘を与え、寛政4年(1792年)8月土着政策は実行された。その後、増館組水木村に土着した。屋敷は「拳長亭」「拳長館」と呼ばれた。積極的に農作業に励み、没するまで晴耕雨読の生活を続けた。菅江真澄などとも親交があった。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社