殷穆
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殷 穆(いん ぼく、太元4年(379年)- 元嘉15年5月20日[1](438年6月28日))は、東晋から南朝宋にかけての官僚。本貫は陳郡長平県。
経歴
[編集]殷允(殷浩の叔父の殷融の子)の子として生まれた。東晋の末年に五兵尚書となり、劉裕の下で相国左長史をつとめた。永初元年(420年)、劉裕が即位すると、散騎常侍の位を受けた。国子祭酒・五兵尚書・呉郡太守を歴任した。元嘉元年(424年)、文帝が即位すると、金紫光禄大夫の位を受けた。竟陵王師を兼ねた。元嘉4年(427年)6月、護軍将軍の号を受けた。元嘉9年(432年)4月、特進・右光禄大夫の位を受けた。始興王師を兼ねた。元嘉15年(438年)5月、在官のまま死去した。享年は60。諡は元子。
子女
[編集]- 殷淳
- 殷沖(字は希遠、中書黄門郎・太子中庶子・尚書吏部郎・御史中丞・呉興郡太守・度支尚書を歴任した。劉劭が文帝を殺害して立つと、殷沖はその下で侍中・護軍・司隷校尉となった。孝武帝が建康を落とすと、殺害された)
- 殷淡(字は夷遠、黄門吏部郎・太子中庶子・歩兵校尉を歴任した)
脚注
[編集]- ^ 『宋書』巻5, 文帝紀 元嘉十五年五月己丑条による。