武蔵野カンツリー倶楽部
武蔵野カンツリー倶楽部 六実リンクス Musashino Country Club Mutsumi Links | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1935年(昭和10年)頃に発行された武蔵野カンツリー倶楽部六実リンクスの絵葉書。
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所在地 |
日本 千葉県松戸市六高台(旧・千葉県東葛飾郡風早村高柳)[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
概要 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
開業 |
1926年(昭和元年)10月 1944年(昭和19年)閉鎖 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
運営 | メンバーシップコース | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
設計 |
大谷 光明(六実リンクス) 赤星 六郎(藤ヶ谷コース) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トーナメント | ・1929年 第4回 日本プロゴルフ選手権大会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コース | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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その他 |
武蔵野カンツリー倶楽部(むさしのカンツリーくらぶ)は、千葉県松戸市六高台(旧・千葉県東葛飾郡風早村高柳)にかつて存在したゴルフ場である。
概要
[編集]武蔵野カンツリー倶楽部 は、1924年(大正13年)、東京府多摩平山(現・日野市平山)に、「平山コース」6ホール規模のゴルフ場を開場[2]、2年後の1926年(昭和元年)、閉鎖された[2]。同年、千葉県東葛飾郡風早村高柳へ移転[2]、同年10月、「六実リンクス」9ホールが開場、1927年(昭和2年)9月、9ホールを増設し18ホールが開場した[2]。1929年(昭和4年)、隣接地に「藤ヶ谷コース」18ホールを増設、両コース合計36ホール規模のゴルフ場となった[2]。
1944年(昭和19年)、帝国陸軍の接収(本土防空の飛行場化のため)を受けて解散となった[2]。当時の武蔵野カンツリー倶楽部の六実リンクスの様子が分かる貴重な絵葉書の資料(当時、武蔵野カンツリー倶楽部会員・賀屋興宣の資料)が残されている[3]。また、日本のプロゴルフメジャー大会の1つ、日本プロゴルフ協会主催競技でもあり、日本選手権大会に相当する第4回 日本プロゴルフ選手権大会が、1929年(昭和4年)7月に開催された実績がある。
所在地
[編集]- 平山コース - 現・東京都日野市平山(旧・東京府多摩平山)
- 六実リンクス - 現・千葉県松戸市六高台(旧・千葉県東葛飾郡風早村高柳)[1]
- 藤ヶ谷コース - 現・千葉県柏市藤ヶ谷
コース情報
[編集]大衆化の始まり
[編集]関西では、1920年代、ゴルフの大衆化によるコース新設が活発だった[5]。その反面、関東では、1906年(明治39年)に開場した「NRCGA根岸コース(ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション根岸コース)」(神奈川県、1943年閉鎖、戦後米軍専用となり1969年閉鎖)、1913年(大正2年)に開場した「東京ゴルフ倶楽部駒沢コース」(東京都、1941年閉鎖)、1917年(大正6年)に開場した「富士屋ホテル仙石ゴルフコース」(神奈川県)、1923年(大正12年)に開場した「程ヶ谷カントリー倶楽部」(神奈川県)のゴルフ場のみであった[5]。
関東のゴルフの大衆化を目的に、1924年(大正13年)、東京府多摩の平山(現・日野市平山)から八王子にかけての丘陵地に、「武蔵野カンツリー倶楽部平山コース」が開場した[6]。同年3月から造成に着手、翌年5月、2,000ヤードの9ホールが完成、東京では東京ゴルフ倶楽部駒沢コースに次ぐゴルフ場である[6]。
平山コースの開設では、地主の杉山又吉の協力が大きかった、地主との交渉に走り、開場後は自宅をクラブハウスとして提供した[6]。また、地元の小学校の生徒がキャディーとして働き、小遣い稼ぎの場所だった[6]。しかし、2年後の1926年(昭和元年)、平山コースは閉鎖し、同年、千葉県の六実・千葉県東葛飾郡風早村高柳へ移転した「武蔵野カンツリー倶楽六実リンクス」である[6]。同年10月、9ホールが開場し、翌年の1927年(昭和2年)9月、9ホールを増設し18ホールが開場した[6]。なお、閉鎖した平山コースを惜しむ声があり、1928年(昭和3年)、「多摩カントリークラブ」として再開、1938年(昭和13年)1月6日、閉鎖された[6]。
会員数が増加したため、1929年(昭和4年)、六実リンクス近くに「武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コース」18ホールを増設した[5]。武蔵野カンツリー倶楽部は、日本で初めて36ホール規模のゴルフ場となった[5]。その後、1944年(昭和19年)、ゴルフ場は第二次世界大戦の影響で、六実リンクスは閉鎖され、藤ヶ谷コースは陸軍用地に決まったため閉鎖し解散した[5]。武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コースは、現在、海上自衛隊下総航空基地・海上自衛隊第三術科学校・藤ヶ谷飛行場(千葉県柏市藤ヶ谷)になっている。南北を走る東武野田線と県道8号線(船橋我孫子線)を挟んで、西側の松戸市側に「六実リンクス」、東側の柏市側に「藤ヶ谷コース」が存在した。
脚注
[編集]- ^ a b 「武蔵野カンツリー倶楽部 六実ゴルフ場及び藤ヶ谷ゴルフ場」、表の家、2020年10月18日閲覧
- ^ a b c d e f 「関東のゴルフの大衆化に一役買った 武蔵野カンツリー倶楽部」、日本ゴルフ協会、2020年10月18日閲覧
- ^ 松戸にあったゴルフ場「武蔵野カンツリー倶楽部 六実ゴルフ場及び藤ヶ谷ゴルフ場」、表の家、2020年10月18日閲覧
- ^ 「日本プロゴルフ選手権大会」、日本プロゴルフ協会、2020年10月18日閲覧
- ^ a b c d e 「関東のゴルフの大衆化に一役買った 武蔵野カンツリー倶楽部」、日本ゴルフ協会、2020年10月18日閲覧
- ^ a b c d e f g 「平山ゴルフ場(武蔵野カンツリー倶楽部平山コース)」、日野市史、1998年3月、2020年10月21日閲覧
関連文献
[編集]- 『公益法人一覧』、昭和7年1月、「東京府 社団法人 武藏野カンツリー倶樂部」、文部省社会教育局編、昭和4-9年、2020年10月18日閲覧
- 『法人一覧』、昭和8年、「東京府 社団法人 武藏野カンツリー倶樂部」、文部省編、大15-昭14年、2020年10月18日閲覧
- 『日野市史通史 編4』、「平山ゴルフ場(武蔵野カンツリークラブ平山コース)」、日野 日野市史編さん委員会、1998年3月、2020年10月18日閲覧
- 『目で見る松戸の100年』、「六実ゴルフ場」、渡邉幸三郎監修、松本 郷土出版社、2008年2月、2020年10月18日閲覧
- 『目で見る柏の100年』、「藤ヶ谷ゴルフ場」中村勝・染谷博監修、松本 郷土出版社、2008年2月、2020年10月18日閲覧
- 『天皇陛下の一世紀 : 明治・大正・昭和のご足跡』、皇室資料保存会編、東京 ピーエヌサービス、2011年1月、2020年10月18日閲覧
- 『鎌ケ谷市史 下巻』、「藤ヶ谷ゴルフ場(昭和12年) 海上自衛隊下総航空基地所蔵写真」、鎌ケ谷市教育委員会、編鎌ケ谷 鎌ケ谷市、2017年3月、2020年10月18日閲覧