武蔵国造の乱
武蔵国造の乱 | |
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戦争:武蔵国造の乱 | |
年月日:安閑天皇元年(534年?) | |
場所:武蔵(のちの武蔵国地域) | |
結果:使主軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
使主軍 大和朝廷軍 |
小杵軍 上毛野氏軍? |
指導者・指揮官 | |
笠原直使主 | 小杵[注 1] † |
武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん/むさしこくぞうのらん)は、古墳時代後期の安閑天皇元年(534年?)に起きたとされる戦い。武蔵国造の笠原氏の内紛とされる。
『日本書紀』に記される出来事であるが伝承性が強いため、事実か創作かは明らかとなっていない[1]。
記録
[編集]乱の経緯は、『日本書紀』安閑天皇元年(534年?)条に記載されている。同条によると、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし[2])と同族の小杵(おき・おぎ)[注 1]は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。
考証
[編集]史実性
[編集]乱の史実性は明らかとなっていないが、同じ頃の継体天皇21年(527年?)には筑紫君磐井が大和朝廷に打倒されていることから(磐井の乱)、武蔵国造の乱にも元となった事件の存在可能性が指摘される[1]。
屯倉の位置
[編集]記事に現れる屯倉とは大和朝廷の直轄領であり、この時期には武蔵国造の乱の記事に限らず地方豪族から贖罪としての貢進の記載がある[3]。『日本書紀』安閑天皇2年5月条には多数の屯倉設置の記事があることから、この時期は大和朝廷が各地の豪族の政争に関与しながら各地に屯倉を設けていったと解され、記事の4屯倉は大和朝廷の東国支配の拠点をなしたと考えられている[4]。記事内にある4ヶ所の屯倉の比定地は次の通り[5]。
- 横渟屯倉(よこぬのみやけ) - 武蔵国横見郡、現在の埼玉県比企郡吉見町か。
- 橘花屯倉(たちばなのみやけ) - 武蔵国橘樹郡御宅郷、現在の神奈川県川崎市幸区北加瀬から横浜市港北区日吉付近か。
- 多氷屯倉(おおいのみやけ、歴史的仮名遣:おほひのみやけ) - 「多氷」を「多末」(たま)の誤記として、武蔵国多磨郡(たまぐん:のち多摩郡)、現在の東京都あきる野市か。
- 倉樔屯倉(くらすのみやけ) - 「倉樔」を「倉樹」(くらき)の誤記として、武蔵国久良郡(くらきぐん:のち久良岐郡)、現在の神奈川県横浜市(特に南東部)か。
また『日本書紀』安閑天皇2年5月条の屯倉設置の記事のうち、上毛野国に次の1ヶ所の記載がありこの乱との関係が指摘されている[5]。
勢力関係
[編集]埼玉県行田市には関東有数の大型古墳群として埼玉古墳群が残っており、武蔵国造の本拠地と推測する説もあるが[6]、同古墳群は北部に寄り過ぎていて知々夫国造の墓とする説もある[7][8][9]。また助けを求められた上毛野小熊は、その名のように上毛野地域(のち上野国、現在の群馬県)の国造であった上毛野国造族の一人である。それらを基に、乱の舞台・規模を巡って、埼玉古墳群を笠原直の墓と見る立場からは次の2説が存在する[1]。
- 南北武蔵の抗争とする説
- 北武蔵での抗争とする説
- 使主の拠点は北東武蔵(埼玉古墳群)、小杵の拠点は北西武蔵(比企地方の古墳群)とする説。小杵と上毛野が隣接し協力を得やすい形になる。
考古学的には、5世紀から6世紀で武蔵地方の古墳群の中心が南武蔵から北武蔵に移動する[5]。また、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方で北武蔵の埼玉古墳群が成長するという傾向も、関連する出来事として指摘される[1]。
中村倉司は、笠原使主は稲荷山古墳に埋葬された一族の出身であり、代々「杖刀人首」として大王・朝廷に仕えていたために、武蔵国造の乱で朝廷に援助を依頼するパイプを有しており、逆に小杵には朝廷とのパイプがなかったために上毛野小熊に頼らざるを得なかったと推察している[10]。
現在の見解
[編集]5世紀段階の北武蔵にも大規模な前方後円墳が築造されていることや、6世紀初頭以前には北武蔵と南武蔵は異なる文化圏を形成していたことなどから、小杵の本拠地を南武蔵とする説には、すでに的確な批判が出されている。現在では北武蔵と南武蔵の対立という構図は再考を迫られており、国造職をめぐる争いは北武蔵内での埼玉地域と比企地域の勢力の対立、あるいは埼玉地域の勢力とその傍系の対立であったとする見方が有力となっている[11][12][13][14][15][16]。
武蔵国造
[編集]記事に見える武蔵国造の「武蔵」は後世に現れる表記で、乱の当時にはまだ存在していない。これは、乱の記事が『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に記されたためである。のちの武蔵国は无邪志国造と知々夫国造の領域が統合し1つの国になったとされており(ただし異説もある)、7世紀頃までの武蔵国に関しては「无射志(むざし)」と表記されていた記録も見つかっている[17]。
国造を列記した『先代旧事本紀』「国造本紀」にも「武蔵国造」という名での記載はなく、无邪志国造と胸刺国造が記載されている[原 1][原 2]。无邪志と胸刺は完全に同一のもので読みも同じ「むさし」であり、文字表記の違いにすぎないというのが定説であるが、地域で分ける説もある。例えば竹内健は現在の東京都と神奈川県横浜市を含む南部が胸刺(かつての小杵の勢力圏)、秩父地域を除く現在の埼玉県にあたる北部が无邪志(かつての笠原使主の勢力圏)であり、武蔵国が宝亀2年(771年)に東海道に移管される前には東山道に属していたのではなく、北部(旧・无邪志国)が東山道、南部(旧・胸刺国)が東海道と、南北に分かれて別々の道に属していたのだという説を唱えている。しかし小杵と使主とは従兄弟であって分岐した時期はそう古くなく、无邪志国造の初代として挙げられる兄多毛比命と胸刺国造の初代として挙げられる伊狭知直は親子関係とする史料もある[18]。
上毛野氏
[編集]上毛野小熊は、のちに中央官人として名を残す上毛野氏の1人で、初めて「上毛野」を冠して記された人物でもある。「国造本紀」には上毛野国造に彦狭島命(上毛野氏遠祖)が任じられた旨の記載もあり[原 3]、上毛野小熊含め上毛野氏は国造であったと推測されている[19][注 2]。
上毛野氏の拠点とする上毛野地域で築かれた古墳は、量・規模とも東日本で群を抜いており、古墳時代には大きな文化圏を築いていたことが知られる(詳しくは「毛野」を参照)。この上毛野勢力の乱への寄与を巡り、定説では「使主 - 大和朝廷」対「小杵 - 上毛野」という上毛野氏の独立性を強調した対立構造が提唱されている[5]。この中で、小杵の敗死とともに上毛野に緑野屯倉が設けられ、上毛野勢力が大きく削がれたと指摘される[5]。一方で、上毛野小熊が助けの求めに応じた記載はなく明らかでないこと、小熊が処罰を受けた記載がなくむしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないことなどから反論もある[5]。
脚注
[編集]注釈
- ^ a b 小杵について、『日本書紀』原文では「笠原直使主與同族小杵」と記されるため、小杵が笠原直を称したかは明らかでない (笠原直小杵(古代氏族) & 2010年)。
- ^ ただし、上毛野氏が上毛野国造を担ったことを示す史料は「国造本紀」のみである (上野国(平凡社 群馬県) & 1987年)。
原典
出典
- ^ a b c d かみつけの里博物館 & 1999年, p. 70.
- ^ 『中野区史. 上巻』。
- ^ 「屯倉」 『世界大百科事典』 平凡社。
- ^ 吉村武彦 『シリーズ日本古代史2 ヤマト王権(岩波新書1272)』岩波書店、2010年、pp. 141-149。
- ^ a b c d e f 熊倉 & 2008年, pp. 297–300.
- ^ 武蔵国(平凡社 埼玉県) & 2004年.
- ^ 「埼玉古墳群」『デジタル大辞泉』
- ^ 「埼玉古墳群」『百科事典マイペディア』
- ^ 「埼玉古墳群」『世界大百科事典』第二版
- ^ 中村倉司「埼玉丸慕山古墳と大里甲山古墳 ー武蔵国造家内紛と大型円墳一[1]」
- ^ 鈴木正信「武蔵国造の乱と横渟屯倉[2]」(『日本古代の国造と地域支配』八木書店、2023年)
- ^ 金井塚良一「稲荷山古墳と武蔵国造の争乱」(『古代東国史の研究』埼玉新聞社、1980年)
- ^ 渡辺貞幸「辛亥銘鉄剣を出土した稲荷山古墳をめぐっ て」(『考古学研究』25巻3号、1978年)
- ^ 若松良一「比企の大首長と武蔵国造」(若松良一・山川 守男・金子彰男編『諏訪山三十三号墳の研究』1978年)
- ^ 若松良一 「菖蒲天王山塚古墳の造営時期と被葬者の性格について」 (『土曜考古』6号、1982年)
- ^ 滝沢規朗「武蔵における首長墓の変遷」(『東京考古』10号、1992年)
- ^ “无射志国荏原評銘文字瓦(川崎市教育委員会文化財課)”. 2013年5月28日閲覧。
- ^ 『先代旧事本紀』「国造本紀」
- ^ 上野国(平凡社 群馬県) & 1987年.
参考文献
[編集]- 百科事典
- 「上野国」『日本歴史地名大系 10 群馬県の地名』平凡社、1987年。ISBN 4582490107。
- 「埼玉郡」『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』平凡社、2004年。ISBN 4582910300。
- 「武蔵国」『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』平凡社、2002年。ISBN 4582490131。
- 「武蔵国」『日本歴史地名大系 14 神奈川県の地名』平凡社、2004年。ISBN 4582910335。
- 佐々木虔一「武蔵国造の反乱」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。
- 『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642014588。
- 「笠原氏」、「笠原直小杵」、「笠原直使主」、「上毛野氏」、「上毛野小熊」。
- その他書籍
- 『よみがえる五世紀の世界 -かみつけの里博物館常設展示解説書-』かみつけの里博物館、1999年。
- 熊倉浩靖『古代東国の王者 -上毛野氏の研究- 改訂増補版』雄山閣、2008年。
- 近藤敏喬 編『古代豪族系図集覧』東京堂出版、1993年、312頁。ISBN 4-490-20225-3。
- 東京都中野区『中野区史. 上巻』東京都中野区、1943年、112頁 。2018年6月24日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション、100コマ目。
- 大田区立郷土博物館編『武蔵国造の乱 考古学で読む日本書紀』1995年
- 城倉正祥「武蔵国造争乱 研究の現状と課題』『史觀』165 2011年
- 鈴木正信「武蔵国造の乱と横渟屯倉[3]」『日本古代の国造と地域支配』八木書店 2023年
- 鈴木正信「武蔵国造と物部直氏」『日本古代の国造と地域支配』八木書店 2023年
- 鈴木正信「武蔵国造の乱の再検討」『歴史評論』895 2024年