武田信守
武田 信守(たけだ のぶもり)は、
- 甲斐源氏第15代当主。武田氏12代当主。
- 安芸武田氏第3代当主。
武田信守(甲斐武田氏)
[編集]時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 享徳4年5月11日(1455年6月25日) |
別名 | 弥三郎 |
戒名 | 勇山健公 |
墓所 | 山梨県甲府市東光寺町能成寺 |
官位 | 刑部大輔 |
幕府 | 室町幕府 甲斐国守護 |
氏族 | 武田氏 |
父母 | 父:武田信重、母∶不明 |
兄弟 | 信守、穴山信介、金丸光重、曽根基経、曽根賢信 |
子 | 信昌 |
武田 信守(たけだ のぶもり)は、室町時代中期の甲斐国守護[1]。甲斐源氏第15代当主。武田氏12代当主。第16代当主・武田信昌の父。通称は弥三郎[1]。刑部大輔[1]。
父・信重が宝徳2年(1450年)に没したため家督を継いだ。しかし、実権は守護代・跡部氏に握られており、政治面では目立った事跡を残せなかった。
享徳4年(1455年)5月11日、死去[1]。法名は勇山健公[1]。号は能浄寺[1]。
子の信昌が跡を継いだ。跡部氏の打倒を遺言したというが、定かではない。
旧地が笛吹市八代町に所在する八代の能成寺(現在は山梨県甲府市東光寺町)の開基であり、彼の墓もそこに現存する。
脚注
[編集]参考文献
[編集]武田信守(安芸武田氏)
[編集]時代 | 室町時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 応永25年(1418年)4月13日[1] |
戒名 | 光明院殿祐光輝渓大居士[2][1] |
官位 | 従四位下伊豆守[1]、安芸守、大膳大夫[2]、治部少輔[1] |
幕府 | 室町幕府 安芸国佐東郡・山県郡守護 |
氏族 | 安芸武田氏 |
父母 | 父:武田信在[2][1](または武田氏信) |
兄弟 | 信守、弟:信繁(または子) |
子 | 信繁(または弟)[1] |
武田 信守(たけだ のぶもり)は、安芸武田氏の第3代当主。
安芸武田氏第2代の武田信在より、安芸佐東郡の分郡守護を引き継ぐ。
応永の乱後、幕府(足利義満)は安芸国にも大内軍追討を命じ、安芸守護に山名満氏を任じた。しかし、かつて大内氏より与えられていた所領が没収・整理されることを恐れた安芸国人33名は、5か条からなる安芸国人一揆を結んで、山名氏に抵抗した。この際、信守は一揆に理解を示して消極的に協力したが、元守護家であり国人と身分差があったので加判はしていない。ただし、武田氏の有力な一族を含む[3]、安芸武田氏と関係の深い熊谷氏・香川氏・山県氏・温科氏などはこの一揆に加わっている。後に、山名氏の統治が難航しているために幕府が直接介入し、国人討伐の命令を下すと詫びを入れて降伏した[4]。信守が幕府に従ったため、応永19年(1412年)に、新たに安芸山県郡の分郡守護を務めることとなった。
なお、応永13年(1406年)には、信守が吉川氏の分家(石見吉川氏)である吉川経見が、惣領家(本家)の跡を継ぐこと認めており、分郡守護(旧守護)としての影響力が発揮している。
生年・没年とも不明だが、死亡を応永25年(1418年)とする説がある(『武田氏系譜』)[2]。跡を武田信繁が継いだ[注釈 1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ISBN 4404012403。
- 高野賢彦『安芸・若狭武田一族』新人物往来社、2006年11月。ISBN 4404034202。
- 吉田龍司『毛利元就 : 「猛悪無道」と呼ばれた男』新紀元社〈Truth in history, 22〉、2010年9月。ISBN 9784775308400。
外部リンク
[編集]- 歴史情報 - 祇園西公民館Web情報ステーション(広島市未来都市創造財団ひと・まちネットワーク部)