正覚寺 (行田市城西)
表示
正覚寺 | |
---|---|
所在地 | 埼玉県行田市城西4-3-21 |
位置 | 北緯36度08分08.9秒 東経139度26分31.3秒 / 北緯36.135806度 東経139.442028度座標: 北緯36度08分08.9秒 東経139度26分31.3秒 / 北緯36.135806度 東経139.442028度 |
山号 | 大雄山 |
院号 | 摂聚院 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 天正6年(1578年) |
開山 | 証蓮社明誉智教 |
開基 | 成田氏長 |
札所等 | 行田救済菩薩十五霊場第2番札所、忍領三十三所第2番札所 |
法人番号 | 4030005013817 |
正覚寺(しょうかくじ)は、埼玉県行田市にある浄土宗の寺院。なお、当寺の約5キロメートル南東の同市野に同名の寺がある。そちらの寺は天台宗である。
歴史
[編集]1578年(天正6年)、成田氏長の開基である。氏長は忍城の城主である。氏長は小田原合戦の際には小田原城で籠城し、忍城は娘の甲斐姫と親族の成田長親に守らせた。二人は忍城攻防戦で石田三成率いる豊臣軍と戦い、主家の後北条氏が降伏するまで守り抜いた。この戦功と甲斐姫が豊臣秀吉の側室になったこともあり、氏長はまもなく下野国烏山2万石の大名に復帰した[1]。
小田原合戦終結後、関東地方の領主として徳川家康が転封され、家康の四男松平忠吉が忍城の城主となった。忍に在封中、忠吉は唯一の実子「梅貞童子」を儲けたが、まもなく夭折してしまった。忠吉は梅貞童子を当寺に葬り、遺品を当寺に納めた[1]。
文化財
[編集]交通アクセス
[編集]- 持田駅より徒歩4分。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 敏蔭英三、秋山喜久夫 著『ふるさとの寺』埼玉県郷土史料刊行会、1971年