正岡芸陽
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正岡 芸陽(まさおか げいよう、1881年(明治14年)9月5日 - 1920年(大正9年)3月24日)は、日本の評論家[1][2]、ジャーナリストである[2][3]。芸陽は筆名で、本名は猶一[1][2]。
経歴・人物
[編集]広島県に生まれる[2][3]。若くしてキリスト教に受洗し[2][3]、青山学院大学に入学した[1][2]。卒業後1899年(明治32年)に雑誌『新声』の同人となった[2][3]。人道主義の立場として社会を批判した著書を多く刊行し[1][2]、1903年(明治36年)には『新声』の主筆として活動した[2][3]。
その後ジャーナリストとしての活動も始め、1905年(明治38年)には『やまと新聞』の特派員として[1][2]、ポーツマス条約の内容について記述した[2][3]。帰国後の1907年(明治40年)には『大阪毎日新聞』の主筆としても活動した[1][2]。
著書
[編集]- 『新聞社之裏面』新声社、1901年(明治34年) NDLJP:897419/1
- 『婦人の側面』新声社、1901年(明治34年) NDLJP:798996/1
- 『嗚呼売淫國』
- 『人道之戰士 田中正造』鳴皐書院、1902年(明治35年) NDLJP:781668/4
- 『米國見物』昭文堂、1910年(明治43年) NDLJP:767407/1
- 『米國野球見物』博文館、1910年(明治43年) NDLJP:860503/3
など多数