桜井静
桜井 静(櫻井 靜、さくらい しずか、1857年11月26日(安政4年10月10日[1][2][注釈 1])- 1905年(明治38年)8月25日[1][3])は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・吉川。
経歴
[編集]下総国香取郡牛尾村(千葉県[3]香取郡[4]牛尾村[1]、東条村[2][5]を経て現多古町[1]牛尾)で、吉川為右衛門の二男として生まれた[1]。池田栄亮に師事し漢学、英学を修めた[1]。1869年(明治2年)県立学校を卒業[2][3][5]。1871年(明治4年)宮谷県租税課に出仕し[1][4]、木更津県、千葉県にも務めた[2][4]。1876年(明治9年)武射郡小池村[1][4](二川村、山武郡二川村を経て現芝山町小池)の桜井吉造の婿養子となった[1][4]。
1879年(明治12年)7月、全国の府県会議長に「国会開設懇請協議案」を送付[1][4][6]。同年12月、私擬憲法草案「大日本国会法草案」を公にした[1][6]。1880年(明治13年)4月、地方連合会創立事務所を東京有楽町に開設し[1][4]、国会開設の誓願運動を全国に展開しようともくろんだが[1][4]、同年6月、集会条例によって解散を命ぜられた[1][4]。
その後、1880年12月の千葉県会議員懇談会で民権派の政治新聞社「総房共立新聞社」の設立を提案し[1]、1881年(明治14年)6月に社長となり新聞を発刊したが[1][3][5]、当局の厳しい取り締まりを受けて[1]、1882年(明治15年)10月に廃刊となった[1]。
1884年(明治17年)9月、千葉県会議員補欠選挙で当選し[1]、1885年(明治18年)5月まで在任した[1]。同年には民権思想の理論的著作『真理実行論』を出版した[1][4]。1887年(明治20年)海外移住植民調査のためアメリカ合衆国、カナダを半年ほど視察した[1][2][3][5]。
1893年(明治26年)北海道に渡り忍路郡塩谷村(現小樽市塩谷)に農場を開設し造林開墾事業を営んだ[1][2][3][5][6]。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(千葉県全県区)で初当選し[1][2][6][7]、第8回総選挙でも再選され[1][7]、衆議院議員に連続2期在任した[3][5]。
日露戦争では主戦論を主張し[6]、1905年(明治38年)1月、大連に渡り[1][3]、桜井組を経営し[3]、大連居留民会長を務めた[3]。しかし、同年8月、持論が受け入れられないことを理由に[6]、大連で自殺した[6][注釈 2]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(千葉県第5区、1890年7月、無所属)落選[8]
- 第7回衆議院議員総選挙(千葉県全県区、1902年8月、憲政本党)当選[7]
- 第8回衆議院議員総選挙(千葉県全県区、1903年3月、憲政本党)当選[7]
- 第9回衆議院議員総選挙(千葉県全県区、1904年3月、憲政本党)落選[7]
著作
[編集]- 『心理実行論』桜井静、1885年。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 『千葉県議会史:議員名鑑』390頁。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 初版』976頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』294頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『房総名士叢伝 前編』30-32頁。
- ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』212頁。
- ^ a b c d e f g 『新潟県大百科事典 上』573頁。
- ^ a b c d e 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』11頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』19頁。
参考文献
[編集]- 中村尚武『房総名士叢伝 前編』中村尚武、1889年。
- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『新潟県大百科事典 上』新潟日報事業社出版部、1977年。
- 『千葉県議会史:議員名鑑』千葉県議会、1985年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。