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橘戸高志麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

橘戸 高志麻呂(たちばなべ の こしまろ、生没年不詳)は奈良時代後期の官人。氏は橘部、名は越麻呂とも記される[1]はなし。官位従五位下備後介

出自

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橘戸氏は天平15年(743年)正月の八戸史族大国の優婆塞貢進文に、「河内国高安郡玉祖郷橘戸君麻呂戸口」とあり[2]、本来この地域の氏であったと思われる[3]天平宝字6年(762年)5月16日の僧光覚願経の知識として、君麻呂のほか、若島古・乙人古・鳥守の名が見える[4]承和7年(840年)11月、橘朝臣と区別するため、天皇の勅により椿戸と改姓している[5]

経歴

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称徳朝の天平神護2年(766年)2月、銭100万を献上し、従八位下から従五位下を授けられる[6]

さらに神護景雲2年(768年)2月、飛騨高市麻呂とともに造西大寺大判官に任命されている[1]

それからしばらく記録には現れず、昇叙も行われていないが、光仁朝宝亀8年(777年)正月、県犬養真伯の後任の備後介に任命されている[7]。その後の動静は不明である。

官歴

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脚注

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  1. ^ a b 『続日本紀』巻第二十九、称徳天皇 神護景雲2年2月18日条
  2. ^ 『大日本古文書』巻八 - 164頁
  3. ^ 岩波書店『続日本紀』3補注27 - 四
  4. ^ 『寧楽遺文』634頁
  5. ^ 『続日本後紀』巻第九、承和7年11月9日条
  6. ^ 『続日本紀』巻第二十七、称徳天皇 天平神護2年2月4日条
  7. ^ 『続日本紀』巻第三十四、光仁天皇 宝亀8年正月25日条

参考文献

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