橘戸高志麻呂
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橘戸 高志麻呂(たちばなべ の こしまろ、生没年不詳)は奈良時代後期の官人。氏は橘部、名は越麻呂とも記される[1]。姓はなし。官位は外従五位下、備後介。
出自
[編集]橘戸氏は天平15年(743年)正月の八戸史族大国の優婆塞貢進文に、「河内国高安郡玉祖郷橘戸君麻呂戸口」とあり[2]、本来この地域の氏であったと思われる[3]。天平宝字6年(762年)5月16日の僧光覚願経の知識として、君麻呂のほか、若島古・乙人古・鳥守の名が見える[4]。承和7年(840年)11月、橘朝臣と区別するため、天皇の勅により椿戸と改姓している[5]。
経歴
[編集]称徳朝の天平神護2年(766年)2月、銭100万を献上し、外従八位下から外従五位下を授けられる[6]。
さらに神護景雲2年(768年)2月、飛騨高市麻呂とともに造西大寺大判官に任命されている[1]。
それからしばらく記録には現れず、昇叙も行われていないが、光仁朝の宝亀8年(777年)正月、県犬養真伯の後任の備後介に任命されている[7]。その後の動静は不明である。