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橋口壮介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
橋口 壮介
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 天保12年(1841年
死没 文久2年4月24日1862年5月22日
墓所 京都市伏見区大黒寺
官位従四位
幕府 江戸幕府
薩摩藩
父母 父:橋口彦次
兄弟 壮介吉之丞
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橋口 壮介(はしぐち そうすけ)は、幕末薩摩藩士。同藩士橋口彦次の子。名は隷三

略伝

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鹿児島城下で誕生。幼少より大山綱良より薬丸自顕流を学び、後に造士館教導となる。また尊王を志して柴山愛次郎奈良原幸五郎らと交流した。

文久2年(1862年)柴山と江戸詰めを命じられ、参府途中で島津久光率兵上洛を根拠に九州の諸士を糾合。また京都では清河八郎田中河内介らと交流し、江戸着任後も有馬新七と連絡を取り合った。しかし思うように同志が集まらなかったため遂に江戸を出奔し、大坂で有馬・田中らと合流して九条尚忠酒井忠義襲撃を計画する。しかし京都寺田屋での集合中に久光の派遣した鎮撫使に襲われて負傷し、その翌日切腹した。一説には寺田屋騒動当日に闘死したともいう。享年22。

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[1]。墓碑は京都市伏見区大黒寺の他多磨霊園にも橋口家の墓がある。

脚注

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  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6