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横田宗太郎

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横田 宗太郎(よこた そうたろう、1856年3月1日安政3年)1月25日) - 1920年大正9年)3月16日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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明治9年9月、陸軍教導団砲兵大隊入学。翌6月、卒業し陸軍砲兵伍長に任ず。

明治11年1月、陸軍砲兵軍曹となる[1]

明治12年1月、陸軍士官学校入学。旧4期[2]

明治14年12月、第4期士官生徒卒業。ただし砲兵科6名・工兵科7名は生徒少尉になる。在校年限が砲工兵科が5年と改正されたのによる[3]

明治16年6月、明治12年入校の「生徒少尉」13名卒業。

明治19年11月、陸軍砲兵射的学校に入学。翌3月、卒業[4]

明治20年5月、陸軍砲兵中尉に任じ、近衛砲兵連隊小隊長を免じ、野戦砲兵第3連隊第2大隊副官に補される[5]

明治22年8月、陸軍士官学校生徒隊附に転じ10月上旬まで近衛砲兵連隊附を仰せつけられる[6]。同年11月、陸軍砲兵大尉に任ず。従七位はそのまま。野戦砲兵第二連隊中隊長に任じられた[7]

明治23年10月、軍務局課員兼高等軍法会議判事となる[8]

明治27年8月、日清戦争に従軍。混成旅団兵站監副官を拝し、ついで、大弧山兵站司令官に転補し糧秣廻送に尽力。油巌海城等を転戦[9]

明治28年2月、任陸軍砲兵少佐[10]。同年、10月18日「従六位勲六等功五級金鵄勲章及単光旭日章」を賜る[11]

明治34年6月20日、任陸軍砲兵中佐・野戦砲兵第17連隊長に補せられる[12]

明治37年2月、日露戦争始まる。

明治37年7月10日、陸軍砲兵大佐に任じられる[13]

明治39年8月10日、野戦砲兵第2連隊長となる[14]日露戦争には、野戦砲兵第17連隊長として出征(第三軍野戦砲兵第2旅団)。旅順攻囲戦の主力砲兵として力戦。奉天会戦でも第三軍の砲兵隊は迂回軍の主力として力戦した。

明治42年8月1日、陸軍少将に補され、のち予備役に編入[15]

大正9年3月16日、仙台で逝去。正五位勲三等功三級。

栄典

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位階
勲章

脚注

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  1. ^ 『河北新報』明治42年8月3日。
  2. ^ 編集責任山崎正男『陸軍士官学校』秋元書房 昭和44年初版。『明治33年日本現今人名辞典、1988年明治人名辞典Ⅱ上巻 日本図書センター再録』。福川秀樹編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  3. ^ 編集責任山崎正男『陸軍士官学校』213頁。
  4. ^ 『明治33年 日本現今人名辞典』
  5. ^ 『官報』第1154号
  6. ^ 『官報』第1845号
  7. ^ 『官報』第1907号。『明治33年 日本現今人名辞典』
  8. ^ 『官報』第2191号
  9. ^ 『明治33年 日本現今人名辞典』
  10. ^ 『官報』第3453号。『朝日新聞』明治28年5月5日。
  11. ^ 『官報』第3693号
  12. ^ 『官報』第5389号
  13. ^ 『官報』第6308号
  14. ^ 『官報』第6940号。『朝日新聞』明治39年8月16日。
  15. ^ 『官報』第7831号
  16. ^ 『官報』第677号「叙任」1885年10月1日。
  17. ^ 『官報』第6367号「叙任及辞令」1904年9月17日。
  18. ^ 『官報』第3578及辞令」1895年6月5日。