横田伝兵衛
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横田 伝兵衛(よこた でんべえ)は江戸時代前期の義民。肥前島原藩守山村大木場名(のち吾妻町、現雲仙市)で組頭を務めた。
経歴
[編集]1684年(貞享元年)-1687年(貞享4年)頃、土地の肥沃度による税率の不平等を藩主・松平忠房へ直訴。食べて大木場名の土を識別したことを認められ税率は変更された。
当時直訴は死罪だったが減免され、島原藩の領内であった湯島(現在の湯島 (天草諸島))へ流罪となった。また妻子の同伴を許され、湯島の地では島民を指導して信頼を得た。1715年(正徳5年)10月10日、病により湯島の地で没した。
伝兵衛の死後、島民は石祠を建てて祭祀し伝兵衛を島神と号したとされ、2014年に湯島のじんべ木場(こば)で発見された石積みが、この石祠の跡と考えられている。また湯島では伝兵衛の墓は見つかっていないが、雲仙市にある墓所に伝兵衛の前腕骨が分骨されているとされる。
湯島の原城スポット公園には地元有志により伝兵衛を称える石碑が建立された。2015年10月4日にはこの石碑の除幕式が行われるとともに、没後300年の法要が営まれた。
横田伝兵衛の記録
[編集]旧三室村(現:雲仙市)出身の漢学者竹添吾麓(1864-1913)が伝兵衛に関する文書を残している。
参考文献
[編集]- 吾妻町史編纂委員会『吾妻町史』1983年、608 - 613ページ
- 長崎県高等学校教育研究会社会科部会(編)『新版 長崎県の歴史散歩 (新全国歴史散歩シリーズ)』山川出版社、1989年、126ページ
- 西有家町郷土誌編纂委員会『西有家町郷土史編纂資料 郷土史散歩2』1975年頃、162ページ
- 長崎県教育委員会『小学校道徳教育用郷土資料 郷土の人と心』1992年、89 - 96ページ