横山昌弘
表示
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1935年2月27日(89歳) |
身長 体重 |
173 cm 72 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1959年4月14日 |
最終出場 | 1961年10月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
横山 昌弘(よこやま まさひろ、1935年2月27日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。
来歴・人物
[編集]静岡商業高では1952年にエース田所善治郎を擁し、中堅手として春の選抜に出場。準決勝は八尾高の木村保の好投に苦しむが辛勝。決勝では日野美澄のいた鳴門高を降し、田所が全試合完封勝利、静岡商を選抜初優勝に導いた[1]。同年夏は、山静大会準決勝でエース矢頭高雄を擁する都留高に敗退。他のチームメートに捕手の阿井利治がいた。
高校卒業後は、明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは3年生までに3度の優勝を経験するが、自身の活躍はなかった。しかし1956年秋季リーグでは打率.378(ベストテン3位)の好成績を残す。大学同期には佐々木重徳、田村満(いずれも中退)、関口一郎、荻孝雄がいた。
大学卒業後は、社会人野球の大昭和製紙に入社。1957年の都市対抗野球に三番打者として出場するが、2回戦(初戦)で全鐘紡に敗退[2]。同年秋にデトロイトで行われた第3回世界野球選手権に鈴木隆、古田昌幸らと日本代表として参加し、中心打者として優勝に貢献する。1958年の都市対抗にも連続出場するが、1回戦で丸善石油に敗れる[2]。同年の産業対抗では打撃賞を獲得した。
1959年に中日ドラゴンズに入団。1年目から一軍で起用され、主に中堅手として14試合に先発出場。翌1960年は左翼手に回り、主に二番打者として21試合に先発。しかし1961年には江藤慎一が外野手に回ったこともあり、出場機会が減少、同年限りで現役引退。
引退後は、中日新聞社記者を経て、中日球団フロントに入った。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1959 | 中日 | 51 | 87 | 81 | 4 | 18 | 2 | 0 | 1 | 23 | 3 | 3 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 1 | 10 | 4 | .222 | .259 | .284 | .543 |
1960 | 68 | 112 | 99 | 8 | 22 | 3 | 2 | 1 | 32 | 4 | 2 | 0 | 7 | 0 | 6 | 0 | 0 | 13 | 0 | .222 | .267 | .323 | .590 | |
1961 | 36 | 48 | 45 | 3 | 12 | 2 | 0 | 0 | 14 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 9 | 0 | .267 | .298 | .113 | .609 | |
通算:3年 | 155 | 247 | 225 | 15 | 52 | 7 | 2 | 2 | 69 | 8 | 5 | 1 | 10 | 0 | 11 | 0 | 1 | 32 | 4 | .231 | .270 | .307 | .577 |
背番号
[編集]- 25 (1959年 - 1961年)