コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

楊逸 (北魏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊 逸(よう いつ、500年 - 531年)は、北魏官僚遵道本貫恒農郡華陰県

経歴

[編集]

楊津の次男として生まれた。員外散騎侍郎を初任とした。華陰県男の爵位を受け、給事中に転じた。父の楊津が中山で杜洛周の率いる反乱軍に包囲されると、楊逸は軍を召集して救援におもむくべく、爾朱栄を通じて朝廷に働きかけ、許可を得た。

528年建義元年)、孝荘帝を迎えるべく河陽に赴き、給事黄門侍郎に任じられ、中書舎人を兼ねた。河陰の変のために北魏の朝士の多くが殺害され、帝もまた恐怖におびえていたが、楊逸が昼も夜も帝に陪侍したため、数日のうちに帝の床の前で寝るほどに親しくなった。まもなく吏部郎中に任じられた。

平西将軍・南秦州刺史となり、散騎常侍の位を加えられたが、道を阻まれて赴任できず、改めて平東将軍・光州刺史に任じられた。当時、災害がうち続き、多くの民衆が餓死していたため、楊逸は光州の官倉を開いて粟を分け与え、事後に上表して報告した。いっぽう法令は厳しく適用し、硬軟合わせた統治をおこなって、治績は最も優秀と評価された。

531年普泰元年)7月、爾朱仲遠の派遣した使者により光州で殺害された。享年は32。532年太昌元年)、都督豫郢二州諸軍事・衛将軍・尚書僕射・豫州刺史の位を追贈された。は貞といった。

伝記資料

[編集]
  • 魏書』巻58 列伝第46
  • 北史』巻41 列伝第29
  • 魏故尚書僕射衛将軍豫州刺史楊公墓誌銘(楊逸墓誌)

関連項目

[編集]
  • 千里眼 - 『魏書』に記された楊逸の逸話に由来するとされる。