楊簡
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楊 簡(よう かん、紹興11年(1141年)- 宝慶2年3月23日(1226年4月21日))は、中国南宋の哲学者・政治家。字は敬仲、号は慈湖。明州慈渓県の人。
経歴
[編集]乾道5年(1169年)、進士となり、富陽主簿に任官。陸九淵の学説に共鳴して師事し、高弟として心学の発展に貢献した。紹興府司理を経て嵊県知県に就いたが、父の楊挺顕の喪より赴任せず、楽平知県に転じた。紹熙5年(1194年)、国子博士を務めたが、趙汝愚を弁護したため左遷され、台州の崇道観を管理した。嘉定元年(1208年)、復職して秘書郎・著作佐郎に任じられ、兵部郎官を兼ねたのに次いで、著作郎・将作少監・国史院編修官・実録院検討官などを歴任した。後に温州知州に赴任し善政を施して尊敬された。理宗が即位すると宝謨閣学士に上がり、慈渓県男に封ぜられ、太中大夫として致仕した。 宝慶2年(1226年)、86歳で死去。文元と諡された。
著書
[編集]- 『慈湖遺書』
- 『慈湖詩伝』
- 『楊氏易伝』
- 『先聖大訓』
- 『五誥解』