楊法深
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楊 法深(よう ほうしん、生没年不詳)は、中国の南北朝時代の仇池氐の首長。陰平王。
経歴
[編集]楊盛の末裔にあたる。法深は陰平に拠って王を称した。孝昌年間に北魏に帰順し、職貢を絶やしたことがなかった[1]。
535年、南朝梁の武帝により平北将軍の号に進められた[2]。さらに驃騎将軍に進められた[3]。
551年、法深は蕭紀に対して黎州刺史の地位を求めたが得られず、北益州刺史とされたため、西魏と通じるようになった[4]。
553年、法深は西魏の尉遅迥による蜀進攻に従軍し、軍を返すと陰平に帰った。まもなく同族の楊崇集と楊陳侳が部衆を率いて内訌をはじめると、西魏の成州刺史の趙昶が使者を派遣してかれらを和解させたので、法深らもその命に従った。かれの部落は西魏によって分割され、西魏の州郡が置かれた[1]。