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楊果

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊 果(よう か、1195年 - 1269年)は、大元ウルスに仕えた漢人官僚の一人。字は正卿。祁州蒲陰県の出身。

生涯

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楊果は幼くして家族を亡くしたことにより亳州許州と居を移し、許州では章句を教授することを生業にして10年余りを過ごした。1224年甲申/正大元年)には金朝で進士科に合格し、偃師県芮城県陝県の諸県を歴任して能吏として讃えられた[1]

1229年己丑/正大6年)に金朝が滅ぶと、楊奐が河南地方での課税のために楊果を起用した。それから程なく、漢人世侯史天沢によって参議とされ、兵乱によって乱れた法制の整備に努めた。中統元年(1260年)、第5代皇帝への即位を宣言したクビライは旧金朝領に「十道宣撫使」を設置し、楊果を北京宣撫使に任命した。中統2年(1261年)には参知政事の地位を拝命し、左丞の姚枢らとともに省議に加わった。至元6年(1269年)には懷孟路総管に任命されたが、老齢を理由に官を退き、自宅にて75歳にして無くなった[2]

楊果は聡明にして鋭敏な人物であったが、諧謔(ユーモア)を得意とし聞く者を絶倒させる一面もあったという[3]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻164列伝51楊果伝,「楊果字正卿、祁州蒲陰人。幼失怙恃、自宋遷亳、復徙居許昌、以章句授徒為業、流寓轗軻十餘年。金正大甲申、登進士第。会参政李蹊行大司農於許、果以詩送之、蹊大称賞、帰言於朝、用為偃師令。到官、以廉幹称、改芮城、改陝、皆劇県也。果有応変材、能治煩劇、諸県以果治効為最」
  2. ^ 『元史』巻164列伝51楊果伝,「金亡、歳己丑、楊奐徴河南課税、起果為経歴。未幾、史天沢経略河南、果為参議。時兵革之餘、法度草創、果随宜参画、民頼以安。世祖中統元年、設十道宣撫使、命果為北京宣撫使。明年、拝参知政事。及例罷、猶詔与左丞姚枢等日赴省議事。至元六年、出為懐孟路総管、大修学廟。以前嘗為中書執政官、移文申部、特不署名。以老致政、卒于家、年七十五、諡文献」
  3. ^ 『元史』巻164列伝51楊果伝,「果性聡敏、美風姿、工文章、尤長於楽府、外若沈黙、内懐智用、善諧謔、聞者絶倒。微時、避乱河南、娶羈旅中女、後登科、歴顕仕、竟与偕老、不易其初心、人以是称之。有西菴集、行於世」

参考文献

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