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楊孟孫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊 孟孫(よう もうそん、生年不詳 - 511年)は、中国南北朝時代仇池氐首長。陰平王。

経歴

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楊崇祖の子として生まれた。父が死去すると、陰平王として立った[1]502年南朝梁武帝により仮節・都督沙州諸軍事・平羌校尉・沙州刺史とされ、陰平王に封じられた[2]

孟孫は数万戸を擁して自立して王となり、南朝梁と通じてその軍を引き入れ、たびたび北魏に進攻した。北魏の裴宣が使者を派遣して招喩すると、孟孫はその子を派遣して洛陽の宮殿に参朝させた[3]

511年、孟孫は死去した。南朝梁の武帝により安沙将軍・北雍州刺史の位を追贈された[1]

子の楊定が陰平王の爵位を嗣いだ[1]

脚注

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  1. ^ a b c 梁書』諸夷伝
  2. ^ 『南史』夷貊伝下による。『梁書』諸夷伝は「仮節・都督・沙州刺史・陰平王とされた」とする。
  3. ^ 魏書』裴宣伝