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楊 孟孫(よう もうそん、生年不詳 - 511年)は、中国の南北朝時代の仇池氐の首長。陰平王。
楊崇祖の子として生まれた。父が死去すると、陰平王として立った[1]。502年、南朝梁の武帝により仮節・都督沙州諸軍事・平羌校尉・沙州刺史とされ、陰平王に封じられた[2]。
孟孫は数万戸を擁して自立して王となり、南朝梁と通じてその軍を引き入れ、たびたび北魏に進攻した。北魏の裴宣が使者を派遣して招喩すると、孟孫はその子を派遣して洛陽の宮殿に参朝させた[3]。
511年、孟孫は死去した。南朝梁の武帝により安沙将軍・北雍州刺史の位を追贈された[1]。
子の楊定が陰平王の爵位を嗣いだ[1]。
- ^ a b c 『梁書』諸夷伝
- ^ 『南史』夷貊伝下による。『梁書』諸夷伝は「仮節・都督・沙州刺史・陰平王とされた」とする。
- ^ 『魏書』裴宣伝