楊大淵
楊 大淵(よう だいえん、? - 1265年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。
略歴
[編集]楊大淵は現天水市の出身で、兄の楊大全・弟の楊大輯とともに南宋に仕える武官となり、閬州の守備を任せられた。1258年(戊午)、モンゴル帝国第4代皇帝モンケ自らが率いる親征軍が閬州に至ると、モンゴル側は南宋から降った王仲を派遣して降伏勧告を行った。楊大淵は王仲を殺して抗戦の道を選んだものの、モンゴル軍の猛攻を受けて弱気になり、結局は投降するに至った。使者の殺害に怒っていたモンケは楊大淵を処刑しようとしたものの、汪田哥のとりなしを受けて助命され、以後モンゴル軍に加わることとなった。この時、楊大淵・楊大輯兄弟は降蓬・広安諸郡を投降させることに功績があったため、楊大輯は管軍総管に任じられて諸王の下で礼義城を攻めることになった。1259年(己未)、楊大淵は更に侍郎・都行省に任命されたが、この頃モンケが包囲中に急死するという事件が起こり、弟のクビライとアリク・ブケの間で帝位を巡る内戦(帝位継承戦争)が勃発することとなった[1]。
1260年(中統元年)、北方モンゴル高原で激戦が繰り広げられる一方、クビライは引き続き南宋方面に出兵するよう楊大淵に命じ、この時楊大淵は再び礼義城を攻めて南宋軍の糧道を絶ち、総管の黄文才・路鈐・高坦らを捕虜とする功績を挙げている。1261年(中統2年)秋、兵を徴発して通川に出兵し、南宋の将鮮恭率いる南宋軍を破って統制の白継源を捕虜とする功績を挙げた。秦蜀行省は楊大淵や青居山征南都元帥キプチャク麾下将校63人の功績を朝廷に報告し、これらに虎符1・金符5・銀符57が下賜された。1262年(中統3年)春、クビライの命を受けて開州・達州の兵を集めて南宋軍と平田・巴渠で戦い、知軍范燮・統制魏興・路分黄迪・節幹陳子潤らを捕虜とする功績を挙げた。この頃、楊大淵は「呉(=長江下流域)を取るにはまず蜀(四川)を取る必要があり、蜀を取るには夔州を拠点とする必要があります」と述べており、夔州平定のために甥の楊文安を巴渠に派遣していた。楊大淵は万安寨に至ると、守将の盧埴を降らせ、また夔州・達州の要衝、蟠龍山に楊文安を派遣した。南宋の夔路提刑鄭子発は蟠龍をが取られると夔州の守備は難しいと述べて出兵し、これを察知した楊大淵は甥の楊文仲を援軍として派遣し、南宋軍を撤退に追い込んだ。同年秋7月、楊大淵麾下の将士の功績が評価され、金符10・銀符19が下賜された[2]。
同年冬、入観した楊大淵は東川都元帥の地位を授けられ、同じく征南都元帥の地位を得たキプチャクと同格の将として四川経略に従事することとなった。楊大淵が四川に戻ると、まず渠江濱に虎嘯城を築いた。1263年(中統4年)、南宋の賈似道が楊琳齎を派遣し南宋に寝返るよう誘ったが、楊文安がこの使者を捕らえ、詔を受けて処刑した。同年5月、クビライは楊大淵の功をたたえ、蒙古・漢軍鈔100錠を下賜した[3]。
1264年(至元元年)、楊大淵は花羅・紅辺絹を各150段を進上したが、朝廷は楊大淵が配下の王仲を殺害したことを戒めている。冬10月、楊大淵は南宋の総統の祁昌が糧食を漢城に運びこもうとしていること、また郡守の向良とその周辺の者達を内地に移そうと計画していることを察知した。そこで、楊大淵はこれを襲撃して椒坪で3日に渡る連戦の末、祁昌・向良らを捕虜とし運搬中の輜重数千を接収する功績を挙げた。その翌日、南宋の都統の張思広が援軍としてやってきたが、楊大淵はこれも破り盛総管を捕虜とした。1265年(至元2年)、楊大淵は楊文安を向良の家人のもとに派遣し、向良の身柄を人質に投降を促したが、漢城は投降を拒み、それから間もなく同年4月に病により亡くなった[4]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻161列伝48楊大淵伝,「楊大淵、天水人也。与兄大全・弟大楫、皆仕宋。大淵総兵守閬州。歳戊午、憲宗兵至閬州之大獲城、遣宋降臣王仲入招大淵、大淵殺之。憲宗怒、督諸軍力攻、大淵懼、遂以城降。憲宗命誅之、汪田哥諫止、乃免。命以其兵従、招降蓬・広安諸郡、進攻釣魚山。擢大楫為管軍総管、従諸王攻礼義城。己未冬、拝大淵侍郎・都行省、悉以閫外之寄委之」
- ^ 『元史』巻161列伝48楊大淵伝,「世祖中統元年、詔諭大淵曰『尚厲忠貞之節、共成康乂之功』。大淵拝命踴躍、即遣兵進攻礼義城、掠其饋運、獲総管黄文才・路鈐・高坦之以帰。二年秋、調兵出通川、与宋将鮮恭戦、獲統制白継源。秦蜀行省以大淵及青居山征南都元帥欽察麾下将校六十三人有功、言于朝。詔給虎符一・金符五・銀符五十七、令論功定官、以名聞。三年春、世祖命出開・達、与宋兵戦于平田、復戦于巴渠、擒其知軍范燮・統制魏興・路分黄迪・節幹陳子潤等。先是、大淵建言、謂取呉必先取蜀、取蜀必先拠夔、乃遣其姪文安攻宋巴渠。至万安寨、守将盧埴降。復使文安相夔・達要衝、城蟠龍山。山四面巖阻、可以進攻退守、城未畢、宋夔路提刑鄭子発曰『蟠龍、夔之咽喉、使敵得拠之、則夔難守矣、此必争之地也』。遂率兵来争。大安悉力備禦、大淵聞有宋兵、即遣姪安撫使文仲将兵往援。宋兵宵遁、追敗之。秋七月、詔以大淵麾下将士有功、賜金符十・銀符十九、別給海青符二、俾事亟則馳以聞、其後賞合州之功、復賜白金五十両。大淵欲於利州大安軍以塩易軍糧、請于朝、従之」
- ^ 『元史』巻161列伝48楊大淵伝,「冬、大淵入覲、拝東川都元帥、俾与征南都元帥欽察同署事。大淵還、復於渠江濱築虎嘯城、以逼宋大良城、不踰時而就。四年、宋賈似道遣楊琳齎空名告身及蠟書・金幣、誘大淵南帰。文安擒之以聞、詔誅琳。五月、世祖以大淵及張大悦復神山功、詔奨諭、仍賜蒙古・漢軍鈔百錠」
- ^ 『元史』巻161列伝48楊大淵伝,「至元元年、大淵進花羅・紅辺絹各百五十段。詔曰『所貢幣帛、已見忠勤、卿守辺陲、宜加優恤。今後以此自給、俟有旨乃進』。既而大淵擅殺其部将王仲、詔戒敕之、令免籍仲家。冬十月、大淵諜知宋総統祁昌由間道運糧入得漢城、并欲遷其郡守向良及官吏親属於内地、乃自率軍掩襲、遇之于椒坪、連戦三日、擒祁昌・向良等、俘獲輜重以数千計。明日、宋都統張思広引兵来援、復大破之、擒其将盛総管、及祁昌之弟。二年、大淵遣文安、以向良等家人、往招得漢城、未下。四月、大淵以疾卒。八年、追封大淵閬中郡公、諡肅翼。子文粲、襲為閬蓬広安順慶夔府等路都元帥。兄子文安」