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楊サイン・ブカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊サイン・ブカ(よう さいんぶか、1281年 - 1320年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。本来の名前は楊漢英であったが、サイン・ブカ(モンゴル語: Sayin buqa)というモンゴル語名を賜ったことから、『元史』などの漢文史料でも楊賽因不花と漢字表記されている。

概要

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楊サイン・ブカの祖先の楊端は太原の人であったが、唐代南詔が播州を陥落させるという事件が起きると募兵に応じ、遂に播州を奪還してこの地に定住した。唐朝が滅亡した後も五代を通じて楊端の子孫は播州の地を領したが、楊端の5世孫に当たるのが楊昭には子がいなかったため一族の貴遷を養子とした。そこから更に8代が続き、その間代々当主は宋朝に仕えて播州安撫使に任じられていた。至元13年(1276年)、南宋が滅ぶと楊邦憲は遂にモンゴル帝国に降り、龍虎衛上将軍・紹慶珍州南平等処沿辺宣慰使・播州安撫使に任じられた。楊邦憲が43歳にして亡くなると、その息子の楊漢英が僅か5歳にして跡を継ぐこととなった[1]

至元22年(1285年)、母親の田氏は楊漢英とともに上京し、クビライに大安閣で見えた。クビライは母子を見て宰臣に「楊氏の母子は父を失いながらも万里の道のりを越えて我が下にやってきた。朕は甚だ不憫に思う」と述べ、楊漢英が父の地位を継承することを許し、また「サイン・ブカ」というモンゴル名を賜った。以後、楊漢英は「楊サイン・ブカ(楊賽因不花)」を称することとなる。至元25年(1288年)、12歳にして再び楊サイン・ブカはクビライの下に入観し、クビライは楊サイン・ブカの応対が優れていること、その領地が安定していることを知ってほめたたえたという。同年、楊サイン・ブカは安撫司為宣撫司に任じられ、ついで侍衛親軍都指揮使に昇格することとなった[2]

クビライが亡くなりオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると楊サイン・ブカは再び入見し、大徳5年(1301年)には宋隆済及び折節らが叛乱を起こしたため湖広行省平章劉二バアトル・指揮使エセンクトゥルクらとともにこれを討伐するよう命じられた。大徳6年(1302年)9月に楊サイン・ブカ率いる軍団は播州から出兵し、賊軍を破って多数の兵を殺害もしくは捕虜とした。これによって阿苴・笮籠は降伏し、その他の賊徒も相次いで投降した。大徳7年(1303年)正月には暮窩に駐屯していたが、賊軍が再結集して戦いを挑んできたため、墨特川の戦いでこれを破った。折節は楊サイン・ブカの武威を恐れて投降を乞うたが斬られ、宋隆済も捕らえられた後に処刑されたことで西南地方は平定された。大徳8年(1304年)には再度入見し、官位は資徳大夫に進んだ[3]

至大4年(1311年)、アユルバルワダがブヤント・カアンとして即位すると勳上護軍の地位を加えられ、改めて世襲を承認された。この頃、播南盧崩蛮が叛乱を起こしたため、楊サイン・ブカが恩州宣慰使田茂忠とともに討伐に派遣されたが、そのさなかに病を得て軍中で40歳にして亡くなった。死後、息子の楊嘉貞が跡を継いだ[4]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻165列伝52楊賽因不花伝,「楊賽因不花、初名漢英、字熙載、賽因不花、賜名也。其先、太原人。唐季、南詔陷播州、有楊端者、以応募起、竟復播州、遂使領之。五代以来、世襲其職。五伝至昭、無子、以族子貴遷嗣。又八伝至粲、粲生价、价生文、文生邦憲、皆仕宋、為播州安撫使。至元十三年、宋亡、世祖詔諭之、邦憲奉版籍内附、授龍虎衛上将軍・紹慶珍州南平等処沿辺宣慰使・播州安撫使、卒、年四十三、贈推忠效順功臣・平章政事、追封播国公、諡惠敏」
  2. ^ 『元史』巻165列伝52楊賽因不花伝,「漢英、邦憲子也、生五歳而父卒。二十二年、母田氏攜至上京、見世祖於大安閣。帝呼至御榻前、熟視其眸子、撫其頂者久之、乃諭宰臣曰『楊氏母子孤寡、万里来庭、朕甚憫之。』遂命襲父職、錫金虎符、因賜名賽因不花。及陛辞、詔中書錫宴、賜金幣綵繒、賚其従者有差。二十五年、再入観、時年十二、帝見其応対明敏、称善者三。復因宰臣奏安辺事、帝益嘉之。是年、改安撫司為宣撫司、授宣撫使、尋陞侍衛親軍都指揮使」
  3. ^ 『元史』巻165列伝52楊賽因不花伝,「成宗即位、賽因不花両入見、贈諡二代。大徳五年、宋隆済及折節等叛、詔湖広行省平章劉二拔都・指揮使也先忽都魯、率兵偕賽因不花討之。六年秋九月、師出播境、連与賊遇、破之。前駐蹉泥、賊騎猝至、賽因不花奮擊先進、大軍継之、賊遂潰、乗勝逐北、殺獲不可勝計。遂降阿苴、下笮籠、望塵送款者相継。七年正月、進屯暮窩、賊衆復合、又与戦于墨特川、大破之。折節懼、乞降、斬之、又擒斬隆済等、西南夷悉平。八年、賽因不花復入見、進資徳大夫」
  4. ^ 『元史』巻165列伝52楊賽因不花伝,「至大四年、加勳上護軍、詔許世襲。播南盧崩蛮内侵、詔賽因不花暨恩州宣慰使田茂忠、率兵討之、以疾卒於軍、年四十。贈推誠秉義功臣・銀青栄祿大夫・平章政事・柱国、追封播国公、諡忠宣。子嘉貞嗣」

参考文献

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  • 元史』巻165列伝52楊賽因不花伝
  • 新元史』巻221列伝118楊漢英伝