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椎野長年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

椎野 長年(しいの の ながとし、生没年未詳)は、奈良時代中期の歌人

記録

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百済の遺臣で、天智天皇4年(665年)8月に、憶礼福留と共に筑紫国大野基肄城の二つの古代山城を築いた四比福夫[1]の子孫で、渡来人系日本人だと思われる。『続日本紀』によると、一族の四比忠勇・四比河守は、それぞれ神亀元年(724年)5月と天平神護2年(766年)3月に椎野連の氏姓を賜与されている[2][3]。女性では、和銅7年(714年)11月に、四比信紗が亡夫の父母への孝養などにより課役を免除され、表彰されている[4]

長年の経歴・事績については一切不明で、医術を以て朝廷に仕えたものだという説がある。『万葉集』におさめられている、以下の古歌の改作を行ったことで知られている。

橘の寺の長屋に我が率(ゐ)(ね)し童女(うなゐ)(はな)りは髪上げつらむか (橘の寺の長屋にわたしが連れてきて寝た童女(うない)(ばな)りは、もう髪を結い上げたことであろうか)[5]

この歌に官して、長年が「脈(とり)みて」いったことは、「寺院の建物は、俗人の寝るべきところではない。また若い女を(髪型から)『放髪丱(うなゐはなり)』と言うが、腰句(第四句)に既に使用されているから、尾句(第五句)に重ねて『著冠(ちゃくくゎん、髪を結い上げること)』と言わない方がよいだろう」と評し、以下のように改作している。

橘の照れる長屋に我が率(ゐ)(ね)し童女(うなゐ)(はな)りに髪上げつらむか (橘の実の照る長屋にわたしが連れてきて寝たあの娘は童女放りに、髪を結い上げたことであろうか)[6]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇4年8月条
  2. ^ 『続日本紀』巻第九、聖武天皇、神亀元年5月13日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第二十七、称徳天皇、天平神護2年3月17日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第六、元明天皇、和銅7年11月4日条
  5. ^ 『万葉集』巻第十六、3822番
  6. ^ 『万葉集』巻第十六、3823番

参考文献

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関連項目

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