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椎名 慶胤(しいな よしたね/のりたね、生年不詳 - 永正17年(1520年)?)は戦国時代の武将。越中の国人で新川郡守護代。通称新七郎。同国守護・畠山尚慶(のちの尚順)より偏諱を受け、慶胤と名乗ったものとみられる。
椎名順胤(四郎次郎)の子か。守護・畠山尚長より独立の動きを見せた神保慶宗の乱(永正16~17年(1519年~1520年))に加担し、1520年8月に境川の合戦で尚長と連合した越後守護代長尾為景に敗れる。さらに12月の新庄合戦で神保・椎名軍は壊滅し、慶胤も討死したとみられる。後に慶宗の子長職と覇権を競う椎名康胤は慶胤の子とみられる。