椎原国幹
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代後期 |
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生誕 | 文政3年(1820年) |
死没 | 1899年(明治32年)10月26日 |
改名 | 鉄太郎(幼名) → 予三次 → 与右衛門 → 国幹 |
別名 | 号:厚助 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 薩摩藩 |
父母 | 父:椎原国紀 |
兄弟 | 政、国蕃、国幹 |
子 | 嘉八郎、春子(川村純義の妻) |
椎原 国幹(しいはら くにもと、文政3年(1820年) - 1899年(明治32年)10月26日)は、江戸時代末期から明治時代後期にかけての薩摩藩士、鹿児島県典司、島津家家令。西郷隆盛の母方の叔父。
来歴・人物
[編集]薩摩国谿山郡谷山郷中村の平馬場(現在の鹿児島市中山町付近)に生まれる。姉・政の長男で甥にあたる隆盛とは年齢が近かったため、実際には兄のような存在であった。なお、『本藩人物誌』に登場する、島津義弘に殉死した椎原与右衛門国林は先祖にあたる。薩摩藩士時代の家格は代々新番であることが、「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集六」の『御家忠死略称』より分かる。
薩摩藩では諸受持掛御郡奉行、維新後は鹿児島県の民事総裁を務めた。1877年(明治10年)の西南戦争では西郷軍に付くが、敗戦と同時に延岡で降伏、宮城監獄にて2年間服役した。嫡子である嘉八郎も西郷側に従軍したが、銃創を負い、宮崎病院にて20歳で死去した。娘・春子は川村純義に嫁いだ。
服役後は鹿児島県の教育発展と後進育成に尽力し、1881年(明治14年)には公立鹿児島学校校長に就任。のち、島津忠済の家令も努めた。80歳没。
系図
[編集]大久保利通━━━利武 西徳二郎━━━竹一 ┃ 西郷吉兵衛 ┃ ┃ ┃ ┣泰徳┣━━利謙 ┣━━━━隆盛 ┃ ┃ ┃ ┏鉄太郎━武子 ┃ ┏政佐 川村純義 ┃ ┏栄 ┃ ┃ ┃ 近藤廉平━┫ 椎原国紀━━━━┫ ┣━━━━┫ ┗廉治 ┃ ┃ ┗常子 ┃ ┗国幹━━━春子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┏泰子 ┏━伝蔵 ┣━━━━━━┫ ┃ ┃ ┗正子 橋口与三次━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━樺山資紀━━愛輔 ┃ ┃ ┃ 白洲文平━━━次郎
関連文献
[編集]- 「鹿児島県の中等教育の変遷 中学造士館を中心に」(山田尚二、1979年(昭和54年))
- 「郷土と日本を築いた熱き薩摩の群像700名」(下竹原弘志編、1990年(平成2年))
- 「百年誌 龍門」(鹿児島県立加治木高等学校百年誌編集企画委員会編、1997年(平成9年))
- 「樟風遙か 甲南高校創立百周年 同窓会記録誌」(甲南高校創立百周年記念事業同窓会実行委員会編、2006年(平成18年))