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植松資久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
植松資久
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄元年(1558年
死没 天正12年(1584年
別名 通称:三郎、久助
官位 帯刀
主君 香西佳清
氏族 植松氏
父母 植松資正、母:宮脇氏の娘
兄弟 往正資久往由
資安
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植松 資久(うえまつ すけひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

略歴

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植松氏讃岐国東部(東讃)の有力国人・香西氏の庶流である。父・植松備後守資正や兄・往正と同様に香西佳清に仕えた。

元亀4年(1573年)、三好長治十河存保がその重臣・篠原長房を攻めた上桜城の戦いにおいて讃岐勢として参戦、長房の夜襲を受け存保を守り、長房の嗣子長重を討ち取った[1]

天正6年(1578年)、十河存保が織田信長と結び三好家を継ぐと、資久はこれを祝うため阿波に赴いた[1]。しかし讃岐において香西清長が、香西千虎丸の香西氏相続を支持し、佳清の家老・新居資教と父・資正を成就院にて殺害した(成就院事件)[1]。父を殺された資久は讃岐に取って返した[1]。そして植松兄弟は香西城を押さえ、母方の宮脇氏と共に清長の籠もる作山城を囲んだ[1]。この時、資久の師である地蔵院香西寺の和尚良運法師が仲裁し、清長は備前中島に流された[1][2]

天正10年(1582年)7月、長宗我部元親の子・香川親和が、羽床資載土佐国伊予国阿波国の兵を加えて香西佳清の領内に侵攻すると、資久は新居資淳と共に鉄砲隊で奇襲をかけ撃退した[1]。翌8月にも佳清の陣代・滝宮安資に従い奮戦したが、滝宮は討死し、佳清は長宗我部氏に降った(伊勢馬場・西光寺表の戦い)[1]。同月、長宗我部氏は十河存之が守る十河城を攻めたが、資久はここでも戦功を挙げた[1]

才気がありかつ豪勇の士であったため、氏族内の有力な頭領として信頼されていたが、天正12年(1584年)、30歳に達せず病死した[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『香西史』第九編 第八章 第八節 植松久助、 『新香西史』第九章 三好時代~第十章 長曽我部時代
  2. ^ 『香西史』第九編 第二章 第一節 良運法師

参考文献

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  • 『香西史』(香川県香西町編、香川県香西町、1930年)
  • 『新香西史』(本田忠雄編、香西町公民館、1965年)