植松幸雅
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保6年11月11日(1721年12月29日) |
死没 | 安永6年9月5日(1777年10月5日) |
改名 | 雅久、幸雅、幽水 |
戒名 | 潜竜院 |
官位 |
左近衛中将、従三位 贈正三位 |
主君 | 中御門天皇→桜町天皇→桃園天皇 |
氏族 | 村上源氏久我家流・植松家 |
父母 |
父:植松雅孝、母:家女房 養父:植松賞雅 |
妻 | 正室:白川雅富養女(滋野井実全娘) |
子 | 雅陳 |
植松 幸雅(うえまつ ゆきまさ)は、江戸時代中期の公卿。植松家4代当主。
経歴
[編集]享保6年(1721年)11月11日、植松雅孝の子として生まれる[3][2]。母は家女房[3][2]。はじめ、雅久といった[1]。父・雅孝には、はじめ子がなかったため、岩倉家から賞雅が養子に入っていたが、その後、幸雅が誕生した。
享保18年(1733年)11月27日、叙爵(13歳)[3]。同20年(1735年)1月9日、賞雅の養子となる[3]。同月22日、元服し、侍従となる(15歳)[3]。
元文2年(1737年)2月12日、従五位上(17歳)[3]。同5年(1740年)2月2日、内蔵権頭(20歳)[3]。同6年/寛保元年(1741年)12月21日、正五位下(21歳)[3]。同3年(1743年)8月29日、右兵衛権佐(23歳)[3]。
延享2年(1745年)3月23日、備前介[3]。同年5月27日、従四位下(25歳)[3]。同5年/寛延元年(1748年)12月27日、上総権介(28歳)[3]。同2年(1749年)12月24日、従四位上(29歳)[3]。
宝暦2年(1752年)12月22日、権介を辞任(32歳)[3]。同3年(1753年)1月5日、正四位下(33歳)[3]。同年5月8日、左近衛権少将(33歳)[3]。同7年(1757年)1月26日、左近衛権中将(37歳)[3]。
宝暦8年(1758年)1月5日、従三位となり[3]、公卿に列した。
宝暦事件に連座して、落飾を命じられた[4]。宝暦10年(1760年)12月25日、落飾して幽水と号した(40歳)[3]。
安永6年(1777年)9月5日、死去[1][2]。56歳[5]。号は潜竜院[2]。
系譜
[編集](出典:『日本史総覧』[2])
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 維新史料編纂会 編『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年1月15日。NDLJP:1879484。
- 今井堯ほか 編『日本史総覧』 補巻《中世三・近世三》、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年11月15日。NDLJP:12192955/182。(要登録)
- 黒板勝美 編『国史大系』 第五十六巻《公卿補任 第四篇》(新訂増補)、国史大系刊行会、1935年1月5日。NDLJP:3431669/235。(要登録)
- 坂本武雄 編『公卿辞典』七丈書院、1944年10月5日。NDLJP:1123765。(要登録)
外部リンク
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