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植松幸雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
植松 幸雅
時代 江戸時代中期
生誕 享保6年11月11日1721年12月29日
死没 安永6年9月5日1777年10月5日
改名 雅久、幸雅、幽水
戒名 潜竜院
官位 左近衛中将従三位
正三位
主君 中御門天皇桜町天皇桃園天皇
氏族 村上源氏久我家流・植松家
父母 父:植松雅孝、母:家女房
養父:植松賞雅
正室:白川雅富養女滋野井実全娘)
雅陳
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植松 幸雅(うえまつ ゆきまさ)は、江戸時代中期の公卿植松家4代当主。

宝暦勤王二十廷臣の一人[1]。贈正三位[2]

経歴

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享保6年(1721年)11月11日、植松雅孝の子として生まれる[3][2]。母は家女房[3][2]。はじめ、雅久といった[1]。父・雅孝には、はじめ子がなかったため、岩倉家から賞雅養子に入っていたが、その後、幸雅が誕生した。

享保18年(1733年)11月27日、叙爵(13歳)[3]。同20年(1735年)1月9日、賞雅の養子となる[3]。同月22日、元服し、侍従となる(15歳)[3]

元文2年(1737年)2月12日、従五位上(17歳)[3]。同5年(1740年)2月2日、内蔵権頭(20歳)[3]。同6年/寛保元年(1741年)12月21日、正五位下(21歳)[3]。同3年(1743年)8月29日、右兵衛権佐(23歳)[3]

延享2年(1745年)3月23日、備前介[3]。同年5月27日、従四位下(25歳)[3]。同5年/寛延元年(1748年)12月27日、上総権介(28歳)[3]。同2年(1749年)12月24日、従四位上(29歳)[3]

宝暦2年(1752年)12月22日、権介を辞任(32歳)[3]。同3年(1753年)1月5日、正四位下(33歳)[3]。同年5月8日、左近衛権少将(33歳)[3]。同7年(1757年)1月26日、左近衛権中将(37歳)[3]

宝暦8年(1758年)1月5日、従三位となり[3]公卿に列した。

宝暦事件に連座して、落飾を命じられた[4]。宝暦10年(1760年)12月25日、落飾して幽水と号した(40歳)[3]

安永6年(1777年)9月5日、死去[1][2]。56歳[5]。号は潜竜院[2]

明治24年(1891年)になり、贈位された[4][5]

系譜

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(出典:『日本史総覧』[2]

脚注

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  1. ^ a b c 坂本 1944, p. 153.
  2. ^ a b c d e f 今井ほか 1984, p. 357.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 黒板 1935, p. 443.
  4. ^ a b 維新史料編纂会 1929, p. 114.
  5. ^ a b 坂本 1944, p. 159.

参考文献

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外部リンク

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先代
植松賞雅
植松家当主
4代
次代
植松雅陳