森田萬右衛門
もりた まんえもん 森田 萬右衛門 | |
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生誕 |
嘉永5年4月11日(1852年5月29日) 尾張国知多郡富貴村(現・愛知県武豊町) |
死没 | 昭和9年(1934年)4月2日 |
職業 | 篤農家 |
森田 萬右衛門(もりた まんえもん/まんねもん、嘉永5年4月11日(1852年5月29日) - 昭和9年(1934年)4月2日)は、尾張国知多郡富貴村(現・愛知県武豊町)出身の篤農家。地元では親しみを込めて「マンネンさ」と呼ばれる。
生涯
[編集]青年期
[編集]嘉永5年(1852年)4月11日、尾張国知多郡富貴村(現・愛知県武豊町)の百姓である森田浦蔵の長男として生まれた[1][2]。幼名は亀太郎[1]。富貴村の円観寺にある寺子屋である弘文学校で学び[1]、二宮尊徳の報徳思想に感銘を受けた[3]。若い頃は若連中の代表として村人を先導した[2]。
戸長として
[編集]明治11年(1878年)に富貴村・東大高村・市原村の3村が合併して三芳村となると、明治12年(1879年)には26歳にして三芳村の戸長(現在でいう村長)に任命された[2]。戸長時代には教育の普及と農業の発展に貢献した[2]。優秀な若者を選抜して村費で師範学校に通わせ、卒業後には三芳村の小学校に雇用するという画期的な制度を導入[2]。また、ため池の造成、山野の開墾、他村に先駆けた桑園の開発(養蚕)など、農業生産の向上に尽力した[2]。明治15年(1882年)には学務員となり。富貴村立小学校の校舎の改築に尽力した[4]。
明治21年(1888年)には富貴村東部の知多湾岸の干拓事業を完成させており、この土地は森田を称えてモリマン新田(森万新田)と名付けられた[2]。明治26年(1893年)には賭博禁止令を制定[2]、その他には飲酒や夜這いも禁止して富貴村の風紀を改善している[1]。
森田は富貴村のみならず、知多郡の他地域でも農業の改良に尽力した[2]。害虫の駆除、共同苗代の実行、養蚕組合の設立、蚕種の製造、産米の改良などである[2]。大正10年(1921年)には愛知県の内外からの賛同を得て、富貴村の中心部に森田翁頌徳記念図書館が設立された[2]。森田の古希(70歳)を記念したこの事業には当時としては巨額の17000円が投じられている[2]。昭和7年(1932年)に新宿御苑で開かれた観菊会では昭和天皇に拝謁した[1]。森田は昭和9年(1934年)4月2日に不帰の人となり、4月5日には富貴小学校で村葬が行われた[2]。森田家の菩提寺は教福寺であり、教福寺には森田の書による額が飾られている[3]。
死後
[編集]生前に森田が説いていた木曽川から知多半島への用水の必要性は、知多市の久野庄太郎らに引き継がれ、昭和36年(1961年)には愛知用水として結実した[3]。武豊町役場富貴支所前には森田萬右衛門の銅像が勃っている[3]。武豊町歴史民俗資料館には森田の業績をまとめたモリマンコーナーが設置されている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 武豊町誌編さん委員会『武豊町誌 本文編』武豊町、1984年、874頁。