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森本清吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
森本 清吾
(もりもと せいご)
生誕 深澤 清吾
(1900-01-26) 1900年1月26日
群馬県前橋市[1]
死没 (1954-06-19) 1954年6月19日(54歳没)
国籍 日本の旗 日本
研究分野 数学
研究機関 東京物理学校
広島高等工業学校
東北帝国大学
群馬大学
プロジェクト:人物伝
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森本 清吾(もりもと せいご、1900年明治33年)1月26日 - 1954年昭和29年)6月19日[2])は、日本数学者。妻は女性数学者の先駆け森本治枝で、清吾の急逝後に女手一つで育て上げた子供4人とも大学教授となっている。

略歴

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「群馬近代蚕糸業の祖」といわれる養蚕製糸業「研業社」オーナーで、前橋英和女学校(現・共愛学園前橋国際大学)創設者の深沢(旧姓大慈谷)利重[3][4]と妻孝子の五男として生まれる。母方の祖父は前橋藩士、深沢雄象[5]

勢多農林学校卒業後、独学で教員検定試験に合格する。1919年大正8年)から赤坂中学校で教鞭を執り、1921年(大正10年)には埼玉県師範学校教諭となった。「一つの数学遊戯」という論文が林鶴一に認められ、1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)まで東北帝国大学助手として勤める[5]

1927年(昭和2年)から東京物理学校(現・東京理科大学)講師として勤め、1935年(昭和10年)東北帝国大学から理学博士の学位を受ける。1937年(昭和12年)から広島高等工業学校(現・広島大学工学部)教授1944年(昭和19年)海軍技師。1946年(昭和21年)から東京工業専門学校(現・千葉大学工学部)に勤めるが1950年(昭和25年)群馬大学学芸学部教授となる[5]

1953年(昭和28年)胃癌と診断され、翌1954年(昭和29年)6月19日死去。葬儀は25日東京神田ニコライ堂で行われた[5]

第二次世界大戦前の1938年、数学教育誌「高等数学研究」に「ランチェスターの2次則モデルの兵力集中効果の応用として、敵兵力分断の各個撃破戦術」を論じている。このランチェスター・モデルの拡張研究は「欧米では第二次世界大戦中の米海軍のORG(オペレーションズ・リサーチ)の研究まで待たねばならない」のに比べて、早い段階で研究していた点を「注目に値する」と執筆から70年以上経った現在、軍事ORの専門家から高く評価されている[6]

人物

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東北帝大の助手だった1924年、新入生の森本治枝に交際を申し込み、1927年昭和2年)3月の治枝の卒業を待って同年6月、周囲から反対されたが結婚した。この時、姓を深澤から「森本」に改称している。(妻・治枝の姓に合わせた)。

その後、子供4人に恵まれたが、清吾が群馬大学教授に就任4年後に急逝。(享年54)。残された妻の治枝は女手で子供を育て上げ、長男の治樹は数学者(大阪市立大学名誉教授)、次男の雅樹天文学者国立天文台鹿児島大学の名誉教授)、三男の芳樹経済学者九州大学元経済学部長で名誉教授)、四男の英樹は生物物理学者(元大阪大学助教授)と、4人とも第一線の研究者になっている。

次男の雅樹は、父である清吾について「ああ嫌だな、こんな大人になりたくないな、と思ったこともあった」とし、「それが今、全部、自分」に引き継がれ、雅樹の「一貫性なく場当たり的」な性格を生んでいるとした上で、それでも兄弟4人とも教授になれたのは「(何事も理屈で考える)母が偉かった」おかげ、と学者夫婦の父母を評している[4]

なお、清吾と治枝は葬儀をめぐり後日談がある。治枝は、結婚に合わせ清吾と同じキリスト教正教徒)の洗礼を受けていたが清吾の死後、教会から足も遠のいていた。ただ、治枝は最期を迎える時も清吾への愛情と「理屈」を均等に重んじ、「私が(仏式で)極楽に行ったのでは(天国の清吾に)会えない」として、清吾と同じ日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂(ニコライ堂)で葬儀を希望。1995年(平成7年)治枝の葬儀(埋葬式)が営まれ、学者夫婦は41年ぶり“天国”で再会した[7]

著書

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脚注

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  1. ^ 産経新聞1997年平成9年)8月18日夕刊【話の肖像画】宇宙に乾杯!電波天文学の権威 森本雅樹さん(4)
  2. ^ 森本清吾(もりもと せいご)とは - コトバンク
  3. ^ 深沢利重(ふかさわ とししげ)とは - コトバンク
  4. ^ a b 産経新聞1997年8月18日夕刊【話の肖像画】宇宙に乾杯!電波天文学の権威 森本雅樹さん(4)
  5. ^ a b c d 勢多郡誌編纂委員会 1958, pp. 919–922.
  6. ^ 国防の危機管理と軍事OR(飯田耕司著、三恵社2011年
  7. ^ 産経新聞1995年3月18日朝刊 葬送 数学者・森本治枝さん(17日東京都千代田区・ニコライ堂)

参考文献

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  • 勢多郡誌編纂委員会 編『勢多郡誌』勢多郡誌編纂委員会、1958年、919-922頁。 

関連項目

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