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森岡元知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
森岡元知
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 不明
死没 明治9年(1876年)11月
別名 民部
墓所 青森県弘前市梅林寺
主君 津軽信順順承
陸奥弘前藩
氏族 称・藤姓津軽氏支流森岡氏
父母 森岡元侯
富太郎
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森岡 元知(もりおか もととも)は、江戸時代後期の弘前藩士。

生涯

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森岡元侯の嫡男として誕生。

天保11年(1840年)に家督を継ぎ、大寄合格、同12年(1841年)馬廻役組頭、同14年(1844年)手廻役兼用人となる。しかし、主君・津軽信順が嗣子の無いまま隠居したため、後継者問題が発生し、元知ら重臣は津軽順承を立てることに反対した。理由は津軽氏の血統を絶やさないことを条件に大道寺順正杉山成章を遣わしたにもかかわらず、2人が裏切り、順承が立てられたためである(順承は松平信明の息子で黒石津軽氏の養子となった)。それを聞いた津軽範疇、森岡元知ら重臣数十名は連判して、近衛家中山忠能徳川斉昭らに直訴した。しかし反対運動は失敗し、同年解任され、蟄居させられた。弘化3年(1846年)には多田三左衛門の元にお預けになった。

嘉永3年(1850年)に解放され、嫡男富太郎に200石を与えられた。文久3年(1863年)、江戸家老手伝となったが、用人西館建哲と人材登用を巡って激しく対立した。元知は山田登、黒滝主殿の登用を、建哲は西館平馬、八木橋其母の登用を主張した。両者共に譲らず、元知は強硬に近衛家に働きかけるなどしたため。解任された。

明治8年(1875年)、十二等準格中学校取締に任じられるも、翌年11月死去した。

参考文献

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  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社