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森岡元徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
森岡元徳
時代 江戸時代中期
生誕 享保20年(1735年
死没 天明5年4月24日1785年6月1日
別名 金吾、主膳
墓所 青森県弘前市梅林寺
主君 津軽信寧
陸奥弘前藩
氏族 称・藤姓津軽氏支流森岡氏
父母 森岡元隆
兄弟 元生元徳
元侯
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森岡 元徳(もりおか もとのり)は、江戸時代中期の弘前藩士。

生涯

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享保20年(1735年)、森岡元隆の次男として誕生。宝暦元年(1751年)4月に兄・元生が死去、家督と寄合格1000石を継いだ。

同2年(1752年)大組武頭、同4年(1754年)表書院大番頭となり、同7年(1757年)参政となる。同9年(1759年)、祖先・森岡信元の所持品「来金道の脇差」を信元が殺害された久渡寺に寄贈し、通称を信元と同じ金吾に改名した。

明和8年(1771年)に家老となるも、飢饉の連続に対して庶民の救済をせず、藩主に虚偽の報告をして特定商人と結び、贅沢にふけっていた。天明4年(1784年)、家老を免職となり、知行を300石に減らされ、蟄居させられた。翌年(1785年)、罪を詫び、自宅の物置で自害した。

なお、久渡寺(青森県弘前市)に現存する円山応挙幽霊画「返魂香之図」について、2021年、弘前市文化財審議委員の調査で絵のモデルが元徳が亡くした妾「國(くに)」である可能性が高いことが判明した[1]

出典

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参考文献

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  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社