森安弘昭
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(森安弘明から転送)
森安弘昭 | |
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騎手時代の森安(1956年頃) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1932年6月19日 |
死没 | 2003年4月25日(満70歳没) |
騎手情報 | |
所属団体 |
国営競馬 日本中央競馬会 |
所属厩舎 |
尾形藤吉・東京(1951年 - 1963年) 森末之助・東京(1963年 - 1969年) |
初免許年 | 1951年 |
騎手引退日 | 1969年 |
重賞勝利 | 29勝 |
G1級勝利 | 5勝 |
通算勝利 | 651戦143勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1969年 |
調教師引退日 | 2003年2月28日 (定年) |
重賞勝利 | 15勝 |
通算勝利 | 5693戦462勝 |
経歴 | |
所属 |
東京競馬場(1969年 - 1978年) 美浦T.C.(1978年 - 2003年) |
森安 弘昭(もりやす ひろあき、騎手時代の表記は森安 弘明、1932年6月19日 - 2003年4月25日)は日本中央競馬会(JRA)の騎手、同調教師。東京都出身。実弟の森安重勝も日本中央競馬会の騎手であった。
人物
[編集]尾形藤吉厩舎所属の騎手として1951年9月30日にデビュー(テツモン[1]、10着)。1952年4月19日の平場オープンにてイツセイに騎乗し初勝利を挙げる。1963年に森末之助厩舎に移籍。1969年に騎手を引退する。
騎手としては大柄な身体に加えて減量に苦しむ体質で(これは弟・重勝も同様)、騎乗できるレースはかなり限られていた[2]。しかし、1953年には桜花賞をカンセイで制し、重賞初勝利を八大競走で挙げるなど無類の勝負強さを誇り、通算143勝のうち重賞で実に29勝(うち八大競走5勝)を挙げ、「重賞男」の異名を取った。
騎手を引退した1969年に調教師免許を取得し、東京競馬場にて厩舎を開業する。調教師としてはキヨヒダカ・ヒダカハヤト親子などを管理した。2003年2月28日をもって調教師を引退。
山口瞳が彼のファンであり、彼を題材にした競馬読物をいくつか発表している。
騎手時代の通算成績
[編集]通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗回数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 141 | 97 | 67 | 340 | 645 | .219 | .369 |
障害 | 2 | 1 | 1 | 2 | 6 | .333 | .500 |
計 | 143 | 98 | 68 | 342 | 651 | .220 | .370 |
- 全国リーディング最高27位(1966年・28勝)
- 重賞通算29勝(うち八大競走5勝)
おもな騎乗馬
[編集]- カンセイ(1953年 桜花賞)
- クリチカラ(1954年 目黒記念(春))
- クリペロ(1959年 スプリングハンデキャップほか)
- カネチカラ(1960年 金盃ほか)
- シーザー(1962年 目黒記念(春))
- リュウムサシ(1962年 オールカマー)
- リユウゼツト(1962年 クイーンステークス)
- クリヒデ(1962年 天皇賞(秋))
- ヤマノオー(1963年 安田記念)
- オーギ(1964年 アラブ王冠〈秋〉ほか)
- ヤマドリ(1965年 東京盃ほか)
- アオバ(1966年 中京記念)
- ナスノコトブキ(1966年 菊花賞ほか)
- ニットエイト(1968年 天皇賞(秋))
- リュウズキ(1968年 有馬記念)
調教師時代の通算成績
[編集]通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 |
---|---|---|---|---|---|
平地 | 418 | 432 | 417 | 3979 | 5246 |
障害 | 44 | 49 | 45 | 309 | 447 |
計 | 462 | 481 | 462 | 4288 | 5693 |
- 重賞通算15勝(うち障害重賞2勝)
おもな厩舎所属者
[編集]※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
脚注
[編集]- ^ 第1回京都農林省賞典四歳呼馬の勝ち馬とは別の馬
- ^ 年間最多騎乗数は1966年の88回だが、年平均にするとおよそ34回/年となる。ちなみに、当時リーディング上位10人に入る騎手は年間およそ200 - 400回程度騎乗するのが通常であった。