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森安五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
森 安五郎
Second Lieutenant Mori Yasugoro
生誕 1913年5月6日
日本の旗 日本静岡県
死没 1937年11月7日
中華民国の旗 中華民国上海
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1936-1937
最終階級

見習士官

陸軍少尉(戦死後特進)
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森 安五郎(もり やすごろう、1913年大正2年)5月6日[1] - 1937年昭和12年)11月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級陸軍歩兵少尉第二次上海事変英雄。殊勲甲、勲六等功四級[2]静岡県出身。

経歴

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静岡県立静岡中学校[3][注釈 1]を経て、1936年静岡高等学校 (旧制)卒業。大日本帝国陸軍補充員見習士官[4]

1937年昭和12年)11月7日に上海蘇州河南岸の趣家宅で戦死。殊勲甲、陸軍歩兵少尉特進[4]

戦闘の経緯

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第二次上海事変の戦いは苛烈を極め、第三師団歩兵第34連隊(静岡連隊)は戦時編成3,800人、戦死者1,248人、戦傷者2,146人。連隊死傷率は90%を超えた。要塞・ 陣地・水濠を張りめぐらした中国国民革命軍第36師(師長:宋希濂陸軍中将)の強力な抵抗に苦戦。10月、軍部は緊急に1,200名の補充員を配置。1937年10月13日、森安五郎は補充員小隊長として、歩兵第34連隊第1大隊第3中隊に入隊。[5]。16日から25日にかけて、大場鎮近くの攻略作戦に参加。小隊を率い中国軍の16人目の兵士を捕虜にする。28日、歩兵第34連隊が渡河作戦を開始、森小隊は最初に川を渡った部隊に属する。11月3日、小隊は中国軍の2つのトーチカを占領。5日、蘇州河南岸の薛家墅を占領。7日、命を受け林肯路を落とすが、部隊の進軍は趣家宅に阻まれる。午後2時40分、森小隊長と小隊が餌として中国軍の火力を集めて北に移動。趣家宅トーチカの下に移動した時、森は中国軍の機関銃が日本軍に向けて掃射されているのを見た。傷を負った森は、自らの身体で特火点の射撃孔を塞ぎ戦死。その壮烈な姿に鼓舞された部隊は直ちに趣家宅を攻め、敵の大隊を壊滅。その後、歩兵第34連隊は上海蘇州河南岸を占領。9日、蔣介石上海から撤退命令。1938年10月7日、第四回支那事変論功行賞、前例を破り功四級金鵄勲章を追贈。

栄典

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1937年(昭和12年)11月7日

脚注

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出典

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  1. ^ 支那事変忠勇列伝 陸軍之部 第13巻”. 2024年8月29日閲覧。
  2. ^ a b c d 同盟旬報 第二巻 第二十八号 [同盟旬報第二巻第二十八号 昭和十三年上旬号] p8 (第四回論功行賞
  3. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 59頁。
  4. ^ a b JAPAN, 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF. “任免裁可書・昭和十二年・任免巻百二十七”. 国立公文書館 デジタルアーカイブ. 2021年1月11日閲覧。
  5. ^ 附表並附録”. www.jacar.archives.go.jp. 2021年1月11日閲覧。

注釈

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  1. ^ 静岡中学46回、同期に宇佐美一夫山本敬三郎石上良平川瀨健治村松道平ら。

参考文献

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