棚瀬襄爾
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人物情報 | |
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生誕 |
1910年2月22日 日本岐阜県本巣郡 |
死没 | 1964年12月10日 (54歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 民族学 |
研究機関 | 龍谷大学、京都大学 |
学位 | 文学博士[1] |
棚瀬 襄爾(たなせ じょうじ、1910年2月22日[2] - 1964年12月10日[2])は、日本の民族宗教学者・アジア地域研究者。
経歴
[編集]出生から終戦まで
[編集]1910年、岐阜県本巣郡生まれ[2]。旧制大垣中学校(現岐阜県立大垣北高等学校)を経て[2]、第三高等学校文科甲類へ入学。卒業後は東京帝国大学文学部宗教学科に入学し、1934年に卒業[2]、同大学大学院に進んだ。1936年、東京帝国大学大学院を修了[2]。
卒業後は、1938年より千代田女子専門学校教授となった。一方で、1939年2月より東亜研究所所員を兼ね、研究を続けた。1941年2月に応召し[2]、中国へ出征して漢口で終戦を迎えた。
戦後
[編集]1946年に復員[2]。戦後は、1947年11月より帝国女子専門学校講師[2]。1949年に龍谷大学教授となり[2]、1959年からは京都大学助教授[2]。1961年3月、研究のため6か月の外国視察に出発(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、ビルマ、タイ、シンガポール、マラヤ連邦)。それら研究成果をまとめて、1962年に学位論文『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』を京都大学に提出して文学博士号を取得[2]。1963年に京都大学東南アジア研究センター(現京都大学東南アジア地域研究研究所)設立されるにあたっては[3]、1962年より計画準備委員会幹事を務めた[2]。センター設立後は、マレーシア地域研究のリーダーを務めた[2]。しかし在職中の1964年12月10日、狭心症のため急逝[2]。
著書
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
単著(邦文)
[編集]単著(英文)
[編集]- Judith Djamour : Malay kinship and marriage in Singapore アジア・アフリカ文献調査委員会、1964年
参考文献
[編集]- 「<棚瀬博士を悼む>棚瀬襄爾博士略歴」『東南アジア研究』第2巻第4号、京都大学東南アジア研究センター、1965年3月、98-98頁、CRID 1050001201936460288、hdl:2433/55014、ISSN 0563-8682。