梅津教知
梅津 教知 | |
時代 | 江戸時代末期 - 明治時代 |
生誕 | 陸奥国仙台藩(現宮城県仙台市) |
別名 | 敬蔵 |
墓所 | 宮城県仙台市青葉区・東昌寺 |
主君 | 明治天皇 |
父母 | 父:梅津教篤(仙台藩士) |
兄弟 | 教知、篤信、貞範、敬治 |
配偶者 | 梅津照子(奥山正胤の娘) |
奉職神社 |
梅津 教知(うめづ のりとも、天保9年12月〈1839年1月〉 - 明治25年〈1892年〉6月10日、享年55才)は、神道家、神官(大講義)、女子教育推進者。
教知は、教部省の官吏にして神道学者であった井上頼囶(天保10年(1839年)生 - 大正3年(1914年)没)の蔵書(神習文庫)に梅津教知の書簡があったことより、井上頼囶と面識があったと窺える。
生涯
[編集]明治元年(1868年)12月15日、奥山正胤(文化2年(1805年)生 - 明治17年(1884年)没、権大講義)の紹介により、平田篤胤家に入門した。梅津教知の名が明治元年に平田門人帳に登載されている。その後、静岡県三嶋大社の主典を務めた[1]。
明治6年(1873年)2月28日、札幌神社(現北海道神宮)初代宮司兼教導職の大講義に任じられた[2]。
同年3月30日、大教院に「教法宣布の管見」たる意見書「北海道教法見込」[注釈1]を提出した。この「北海道教法見込」は、神仏合同の大教宣布を目指した提案であったと看做すことができるが[3]、大教院の中教正鴻雪爪および権大教正三条西季知を通じて、4月17日に教部省に伺い出された。また同日に梅津教知が教部省に上申するために著わされたと考えられる「女教考案」が、井上頼囶所蔵書類にある[注釈2]。
5月18日、「神拝祝詞」を著わす[注釈3]。
7月、現地に赴任することなく、札幌神社宮司をわずか5ヶ月ばかりで退職した[4]。のち、金華山黄金山神社祠官を務めた。
明治12年(1879年)1月9日、梅津教知私邸(仙台市東二番丁76番地)に、私立仙台女紅場(教育施設)を、妻奥山照子と共に開設した[注釈4]。女紅場の運営には弟の梅津貞範が関わった。梅津教知のもうひとつの邸宅(東二番丁42番地)跡には、明治28年(1895年)仙台女子実業学校が設けられ、その後、明治30年(1897年)、同地に仙台市高等女学校(現:宮城県宮城第一高等学校)として開校した。
墓所は東昌寺(宮城県仙台市青葉区青葉町八番一号、臨済宗)にある。同墓内には、義弟であり札幌神社の権宮司を務めた小幡虎信(弘化4年(1847年)生 - 明治8年(1875年)没、権大講義)の墓もある。
注釈
[編集]1.教導活動
[編集]遠藤潤(國學院大學神道文化学部教授)は、明治初期の北海道における教導活動と札幌神社について調査研究し,梅津教知の提出した「北海道教法見込」について次のように示している。「北海道教法見込」は、北海道での「教導」の予定・希望(見込み)を提案するもので、三条により構成され,その概略は、以下の通り[5]。
第一条 当分、札幌神社社務局を宮城県の設置する中教院出張所として、官員一名を出張させて北海道を総括させ、十一か国のうち便宜のよい地に小教院を設ける。規則はおおよそ中教院に準じ、実際の運用については開拓使と協議し、風土と人情に対応して処する。
第二条 本来中教院で奉斎すべきである「皇祖大神」、天神地祇、歴代の皇霊は暫定的に札幌神社に分祀する。札幌神社は北海道で唯一の官幣社につき、この社を当分、北海道総鎮守とする。札幌神社遙拝所を普及させる。産土神社がある地域は、その区域を確定して氏子を定め、産土神社がない地域は、小教院の敷地内に清浄な地を選び、注連縄をかけて札幌神社遙拝所とする。なお、氏子調と守札配布を優先し、神社造営はあとにする。
第三条 国幣官幣の小社の例に関わらず、札幌神社の官員は大社の官員に準じて増員することを求める。
ここに、札幌神社を場とした教導活動は、小規模ながら開始され、明治6年10月18日付開拓使宛に札幌神社権宮司 小幡虎信が「布教開講」の届け出をした上で、11月6日に最初の「演教」を札幌神社宮司 菊池重賢が行い、同月21日には菊池および小幡がこれを行った[6]。この時期の説教について菊池と小幡は開拓使に宛てた願書で「当地布教之儀、去る十月以降開講、毎回聴人増加、地方官之聞情宜敷勤続罷在候」と述べている。
2.女教考案
[編集]秋元信英(國學院大學北海道短期大学部教授)は、井上頼囶の蔵書「神習文庫」(無窮会専門図書館)に所収されている梅津教知著「女教考案」、「神拝祝詞」を丹念に調査研究し紹介している。
梅津教知の書「女教考案」の要旨は、以下である[7]。
三条の教則を根幹とした教導職の活動には、我が国に特有な女性のための教育が必要である。従来、女性に対しては、容姿、芸能、才子の三要素が批評の基準であったが、その程度であってはならない。旧来を一洗して「皇国ノ光曜ヲ益す事」が必要になる。その為の要素は、次に述べる三部から成立する。
第一は制度である。学制とは違う、女子を対象とした女教院の開設を提案する。第二に女教院における学業と職業の訓練であり、その内容は、1)読書(三条の教則(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守))、2)習字、数学、3)歌、和文、立花、茶湯、4)養蚕、縫針、糸機、染、洗濯、5)容儀、礼式、6)説教、講釈、輪読、歌文会式、質問である。第三は教導職である。女教院における教育の人的荷担者を構成するは、教師(女性の教導職)、助教、講社とする。
「女教考案」原文は、『北海道神宮研究論叢』秋元信英 2014, pp. 360–363に記載されている。
3.神拝祝詞
[編集]梅津教知の著わした「神拝祝詞」は、大教宣布に従事した神官の祝詞ないし拝詞の作文と捉えることができる。作文に使用した典拠や事情の類は、梅津が平田派であることを考慮し、文政12年版の平田篤胤「改正再板毎朝神拝詞紀」(後刻版)および「玉襷」が下敷であったと、秋元信英は推察している[8]。拝詞であっても、神社を遙拝するのを予想しておらず、方位が指定されてない。この拝詞は大教宣布が根幹にあり、特定の神社の祭神を拝さず、広く神々を敬い神徳を称えている。延喜祝詞式から麗しい慣用的な形容詞を簡抜し組み合わせて連ねられている。梅津教知は、「先代旧事本紀」の「天神本紀」にみえる天孫降臨の物語や神宝の霊力をめぐる知見を有しており、この「神拝祝詞」からは、平田派に特有な天地未生や大国主神の神徳をめぐる思想がうかがえる[9]。
「神拝祝詞」原文は、『北海道神宮研究論叢』秋元信英 2014, pp. 376–380に記載されている。
4.仙台女紅場および女教院
[編集]仙台女紅場については、植村千枝(宮城教育大学助教授)、知野愛(郡山女子大学短期大学部教授)の研究がある。知野は論文にて次のように発表している。(一部加筆)
仙台女紅場は、明治12年1月梅津教知の私邸に設置されたことに始まる。梅津教知の妻照子は、女紅場設立以前から同場所において女教院(教部省のもとに設けられた神道系女子教育機関)の教導職十三級の「訓導」を務めていた。照子は、女紅場設立後は裁縫教師を兼務した。後に教導職九級の中講義を任じられた。明治時代の裁縫教育の二大先覚者の一人朴沢三代治の教え子達が裁縫教師を務めているため、仙台女紅場の裁縫科は朴沢の教授法の影響を受けたと考えられる。『文部省年報』に仙台女紅場が登場する明治16年当時、仙台では、機織科と裁縫科の二科が置かれたとある。それは、梅津貞範による宮城縣令松平正直宛の、仙台女紅場の概要を記した届書(明治16年3月)[10]から確認できる。運営費には、学費の他、機業場の収益金を充てられた。製作品は、装飾品ではなく生活に密着した実用的な物を作り、実生活に即役立つ教育であった。生徒は、約140人のうち13~16歳が90%以上を占め、全員が仙台区内の出身者であった[11]。
著書
[編集]- 公余秘抄
- 恐惶録(きょうこうろく) 明治3年(1870年)
系譜
[編集]- 父:梅津教篤(仙台藩士、文化13年(1816年)生-慶應3年(1867年)没、享年52才。先妻:吉田九左ェ門景治妹、後妻:利。)
- 教知は長男。母は吉田九左ェ門景治妹。
- 異母弟:梅津順助篤信(次男、弘化4年(1847年)生-元治元年(1864年)9月8日没、享年18才。母は利。)
- 異母弟:梅津貞範(三男、安政2年(1855年)生-没年不詳。母は利。村田家養子となる。)
- 異母弟:梅津敬治(四男、安政4年(1857年)4月17日生-明治41年(1908年)5月27日没、享年52才、正七位、勲四等、功五級、陸軍歩兵大尉。母は利。)
- 梅津敬治とその妻:加寸(かす)の子供に、6男2女(庸(長男)、重雄(次男)、義雄(三男)、定雄(四男)、鎭雄(五男)、英雄(六男)、たけこ(長女)、文子(次女)がいる。
- 教知の妻:梅津照子(弘化4年(1847年生)-没年不詳) - 奥山正胤女
脚注
[編集]- ^ 北海道神宮『北海道神宮史』下巻、1995年9月1日、687頁。
- ^ 開拓使函館支庁庶務課『院省府県往復文移録』 42件目に記載、1873年3月4日。
- ^ 秋元信英『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、349頁。
- ^ 北海道神宮『北海道神宮史』下巻、1995年9月1日、665頁。
- ^ 遠藤潤『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、119頁。
- ^ 遠藤潤『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、122頁。
- ^ 秋元信英『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、355頁。
- ^ 秋元信英『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、375頁。
- ^ 秋元信英『北海道神宮研究論叢』弘文堂、2014年10月5日、375頁。
- ^ 植村千枝『家庭科教育における技能・技術(3)宮城県を中心にした裁縫教育成立の背景』宮城教育大学紀要 第21巻 第2分冊、1986年、77頁。
- ^ 知野愛『女紅場における勧業・裁縫教育:仙台女紅場を中心に』日本家政学会第51回大会研究発表要旨集、1999年5月28日、264頁。
参考文献
[編集]- 『北海道神宮研究論叢』北海道神宮・國學院大學研究開発推進センター編、弘文堂、2014年10月5日。
- 梅津教知「女教考案」『神習文庫』、無窮会専門図書館、1873年4月17日
- 梅津教知「神拝祝詞」『神習文庫』、無窮会専門図書館、1873年5月18日
- 植村千枝「家庭科教育における技能・技術(3)宮城県を中心にした裁縫教育成立の背景」『宮城教育大学紀要第21巻第2分冊自然科学・教育科学』1986年、63-82頁
- 知野愛「明治初年の女子勧業教育(2)仙台女紅場を中心に」『郡山女子大学紀要第35集』1999年3月、169-187頁
- 知野愛「女紅場における勧業・裁縫教育:仙台女紅場を中心に」『日本家政学会第51回大会研究発表要旨集』1999年5月28日、264頁。
- 小平美香「国民教化政策と女教院、復古と開化をめぐって」学習院大学人文科学研究所『人文10号』、198-179頁、2011年3月28日。
- 『北海道神宮史』下巻、北海道神宮、1995年9月1日。