桓郁
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桓 郁(かん いく、生年不詳 - 93年)は、後漢の儒学者・官僚。字は仲恩。本貫は沛国竜亢県。
経歴
[編集]桓栄の子として生まれた。若くして父の蔭官により郎となった。父から欧陽『尚書』の学問を伝授された。『尚書』を教授して、門徒は常に100人を数えた。父が死去すると、桓郁が爵位を嗣ぐべきであったが、上書して兄の子の桓汎に譲ろうとした。明帝がこれを許可しなかったため、桓郁はやむなく封を受けたが、その収入は全て桓汎に与えた。明帝は先師(桓栄)の子である桓郁に礼を尽くして厚遇し、経書の内容を議論し、政事について諮問した。71年(永平14年)、桓郁は議郎となり、侍中に転じた[1]。明帝は五行の章句を定めるべく、桓郁に命じて宣明殿で校定させた。桓郁は侍中のまま監虎賁中郎将をつとめた。
72年(永平15年)、宮中に入って皇太子劉炟に経学を教えた。越騎校尉に任じられた。明帝は桓郁に対して礼を尽くすよう太子や諸王に命じた。劉炟(章帝)が即位すると、桓郁は母の喪に服すため辞職を願い出たが、喪に服したまま侍中の職務をつとめるよう命じられた。77年(建初2年)、屯騎校尉に転じた。
和帝が即位すると、侍中の竇憲は幼主に経学を学ばせようと、『尚書』の学問に優れた桓郁のことを竇太后に推薦した。これにより桓郁は長楽少府に転じ、宮中に入って和帝に『尚書』を講義した。しばらくして、侍中・奉車都尉となった。92年(永元4年)、丁鴻に代わって太常となった。93年(永元5年)、病没した。
なお、「四知」で有名な楊震は桓郁の弟子にあたる。
子女
[編集]- 桓普(後嗣)
- 桓延
- 桓焉
- 桓俊
- 桓酆
- 桓良
脚注
[編集]伝記資料
[編集]- 『後漢書』巻37 列伝第27