桑木崇明
桑木 崇明 | |
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生誕 |
1885年10月22日 大日本帝国 広島県 |
死没 | 1945年12月6日(60歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1904年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
桑木 崇明(くわき たかあきら[1]、1885年(明治18年)10月22日[1] - 1945年(昭和20年)12月6日[1])は、日本の陸軍軍人。陸士16期恩賜[2]・陸大26期恩賜[3]。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]本籍石川県。桑木崇台歩兵大佐の三男として広島で生まれる。広島一中、広島陸軍地方幼年学校(首席)、中央幼年学校(首席[4][5]。次席は永田鉄山[4][5]。)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)(全兵科では4番/549名であり、砲兵科首席、恩賜)を卒業。同年11月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。1905年(明治38年)3月から1906年(明治39年)2月まで日露戦争に出征。1910年(明治43年)11月、陸軍砲工学校普通科(恩賜)高等科(16期)を卒業。さらに、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を優等で卒業した。
1915年(大正4年)3月、野砲兵第14連隊中隊長となり、同年8月、参謀本部付勤務(ロシア班)に異動。同年9月から1916年(大正5年)3月まで東京外国語学校で夜間にロシア語学習を行う。1916年2月、参謀本部員となり、1917年(大正6年)6月、ロシア駐在に発令されペトログラード、ウラジオストク、オムスクに滞在。1919年(大正8年)1月、参謀本部員に移り、1920年(大正9年)6月、野砲兵第14連隊付に異動。フランス出張、トルコ駐在となる。この間の1920年8月、砲兵少佐に昇進。1921年(大正10年)5月、ギリシャ公使館付武官に転じた。1922年(大正11年)11月、陸大教官に就任し、1925年(大正14年)3月に砲兵中佐、1928年(昭和3年)3月、砲兵大佐に進級し野戦重砲兵第2連隊長に着任。
1930年(昭和5年)3月、参謀本部演習課の課長となり、1932年(昭和7年)12月、陸軍少将に昇進し野戦重砲兵第3旅団長に就任。1934年(昭和9年)1月、台湾軍参謀長に異動し、陸軍野戦砲兵学校幹事、参謀本部第1部長を歴任。1936年(昭和11年)8月、陸軍中将に進んだ。1937年(昭和12年)1月、陸軍兵器本廠付となり、第1師団留守司令官を経て、1938年(昭和13年)6月、新設の第110師団長に就任し日中戦争に出征。北京付近の警備に当たるとともに京漢線沿線の治安作戦に従事。1939年(昭和14年)12月、予備役に編入された。
太平洋戦争開戦後、1943年(昭和18年)11月に召集され参謀本部付となり終戦を迎えた。1945年(昭和20年)10月に召集解除された。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
著書
[編集]- 『砲兵小戦術』兵事雑誌社、1909年。
- 『陸軍五十年史』鱒書房、1943年。
伝記
[編集]- 桑木崇秀編著『父陸軍中将桑木崇明とその兄達』展転社、2003年。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 秦 2005, p. 62, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-桑木崇明
- ^ 秦 2005, pp. 625–631, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-6.陸軍士官学校卒業生
- ^ 秦 2005, pp. 545–611, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生
- ^ a b 秦 2005, pp. 629–631, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-7.中央幼年学校(陸軍士官学校予科)卒業生
- ^ a b 岩井 2019, pp. 37–41, 第二章 陸軍のエリートー非凡と平凡
- ^ 『官報』第6441号「叙任及辞令」1904年12月17日。
- ^ 『官報』第3819号「叙任及辞令」1939年9月26日。