桑山城
桑山城 (富山県) | |
---|---|
富山県南砺市川西の桑山城跡 | |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 石黒氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 坊坂四郎左衛門 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 曲輪、土塁、堀、虎口、土橋、櫓台 |
指定文化財 | 未指定 |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯36度34分44.6秒 東経136度51分11.9秒 / 北緯36.579056度 東経136.853306度座標: 北緯36度34分44.6秒 東経136度51分11.9秒 / 北緯36.579056度 東経136.853306度 |
地図 |
桑山城(くわやまじょう)は、富山県南砺市川西にあった戦国時代の日本の城(山城)。とやま城郭カードNo.50[1][2]。また「とやま文化財百選」の1つに選ばれている[3]。
概要
[編集]南砺市の福光市街地から北西、小矢部川の中流域左岸に面した標高292メートルの桑山山頂に位置する。城の縄張りは南北100メートル×東西100メートルを測る。
本曲輪は桑山火宮社と言う神社の北側に位置し、神社境内との間には、屈曲した横矢掛け構造の堀切を持つ[4]。本曲輪北側には切岸が巡り、その下に空堀と帯曲輪を展開している。他に櫓台や土橋、土塁等も残る[5]。
築城年代は不明だが、15世紀後半には桑山東麓の福光城主・石黒氏の支城として坊坂四郎左衛門が守備に入っていた[4]。しかし1481年(文明13年)に、石黒光義および天台宗医王山惣海寺と、浄土真宗瑞泉寺率いる越中一向一揆勢が衝突し田屋川原の戦い[6]が起ると、坊坂が一揆側に寝返り福光城と惣海寺に火を放ったため、石黒方は壊滅した[5]。
なお、南砺市福光にある光徳寺[7]の由緒によると、文明年間に加賀井家荘砂子坂に高坂四郎左衛門という武勇を知られた武士がいたとされる[8]。高坂四郎左衛門には子がいなかったことにより、舎弟の高坂治部尉を後嗣としたが、高坂治部尉は吉崎滞在中の蓮如の教えを受けて浄土真宗に帰依した[8]。やがて高坂治部卿は道乗という法名を名乗り、1471年(文明3年)に砂子坂道場を開いたが、これが現在の光徳寺と城端別院善徳寺の前身となる[8]。「高坂四郎左衛門」は加越国境地帯を拠点とする点、浄土真宗の外護者であった点で坊坂四郎左衛門と共通しており、両者は同一人物であったと推定されている[9][10]。
廃城年代は不明だが、遺構は戦国時代後期の形態を留めているという[5][4]。
脚注
[編集]- ^ 「とやま城郭カードが完成しました!」砺波市公式HP
- ^ 「とやま城郭カード一覧」砺波市公式HP
- ^ 「No.5-106 桑山城」富山県映像センター公式HP
- ^ a b c 佐伯 2011, p. 108.
- ^ a b c 砺波地区公民館ふるさと教育推進委員会 2016
- ^ 「No.5-0006 主な越中の戦国時代の合戦 - とやまの城」富山県映像センター公式HP
- ^ 「光徳寺(南砺市文化芸術アーカイブス)」南砺市公式HP
- ^ a b c 笠原 1962, pp. 266–267.
- ^ 太田 2004, p. 247.
- ^ 久保 2008 pp.45
参考文献
[編集]- 久保尚文 2008「真宗の浸透-瑞泉寺と五箇山-」『南砺の城と人 -戦国の寺・城・いくさ-(山科本願寺から五箇山・瑞泉寺へ 山岳古道と砦跡 蓮如と赤尾道宗 : 南砺市立井波歴史民俗資料館118回企画展 : 見学会・シンポジウム資料集)』南砺市教育委員会
- 佐伯哲也『越中中世城郭図面集 3西部・補遺編』桂書房、2011年。
- 太田, 浩史「越中中世真宗教団の展開と城端地域」『城端町の歴史と文化』城端町教育委員会、2004年、172-290頁。
- 笠原, 一男「越中国における真宗の発展」『一向一揆の研究』山川出版社、1962年、243-285頁。
- 草野, 顕之「善徳寺の開創と一向一揆」『城端別院善徳寺史』城端別院善徳寺蓮如上人五百回御遠忌記念誌編纂委員会、1999年、9-30頁。
- 砺波地区公民館ふるさと教育推進委員会 2016 『となみ山城マップ』砺波市教育委員会公式HP(砺波正倉)