査慎行
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查 慎行 | |
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查 慎行『清代学者像伝』第二集より。 | |
生誕 |
1650年 浙江省海寧県 |
死没 |
1727年(76 - 77歳没) 浙江省海寧県 |
国籍 | 中国清代 |
民族 | 漢族 |
職業 | 文人、詩人 |
查 慎行 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 查慎行 |
簡体字: | 查慎行 |
拼音: | Zha Shenxing |
英語名: | Zhā Shènxíng |
査 慎行(さ しんこう、1650年 — 1727年)は、中国清朝初期の詩人、文学者。原名は嗣璉(しれん)、字は夏重、号は査田。後に慎行と改名し字も悔余と改めた。号にはほかに他山と煙波釣徒がある。査慎行の詩は査升の書道、朱白恒の画とともに、海寧三絶と呼ばれる。査慎行は武侠小説家の金庸の先祖である[1]。
略歴
[編集]出身地は浙江省の海寧(現在の海寧県)で、明末以来、多くの学者、官僚を輩出したことで知られる海寧査氏の一族である。5歳から詩をつくった。10歳の時、黄宗羲に師事し、経学を研究し中でも『周易』に最も心得があった。20歳から雲南、貴州、華中、華北、東南の各地を遊歴し、大量の詩を賦して名を成した。23歳で童子試に合格し、康熙三十二年(1693年)に挙人となり、康熙四十二年(1703年)には53歳で進士に及第した。康熙二十八年(1689年)、査慎行が『長生殿』の「国恤張楽」事件に巻き込まれて免職された。[2]。康熙四十一年(1702年)、康熙帝の東巡を機に大学士陳廷敬などが推薦、詔によって南書房に入った。康熙四十二年(1713年)、翰林院編修となった。康熙五十二年(1713年)退職して故郷に帰り、長年隠棲した。雍正四年(1726年)、査慎行は弟の査嗣庭の「犯訕謗」事件に連座して「家長失教」罪で逮捕。1727年、査慎行は家で逝世した。
脚注
[編集]- ^ 唐山 (2016年5月13日). “穆旦:他是金庸的堂哥,更是最伟大的现代派诗人” (中国語). 北京晩報
- ^ 李聖華 (2015年9月23日). “查慎行与《长生殿》案” (中国語). 中国社會科學網
参考書目
[編集]- 沈起、陳敬璋『查継佐年譜查慎行年譜』中華書局、2006年6月1日。ISBN 9787101008869。
- 『敬業堂詩集』上海古籍出版社、2015年7月1日。ISBN 9787532575343。
- 『查慎行集』浙江古籍出版社、2014年7月1日。ISBN 9787554002872。
- 王新芳『查慎行詩歌批評研究』人民出版社、2015年12月1日。ISBN 9787010152820。