柴田康長
表示
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 天正15年(1587年) |
死没 | 寛永13年6月22日(1636年7月24日) |
別名 | 通称:七九郎 |
墓所 | 埼玉県上尾市の十連寺 |
官位 | 従五位下筑後守 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
氏族 | 柴田氏 |
父母 | 父:柴田康忠 |
兄弟 |
康長、氏茂、今井九郎左兵衛室、 神保氏勝室、石川氏室、大井政吉室 |
妻 | 正室:永井直勝娘 |
子 |
康久、戸川安平室、高木正弘正室、 弓気多昌勝室、松平伊耀正室、 服部保重室、康明 |
柴田 康長(しばた やすなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本寄合。柴田七九郎康忠の子。通称、父と同じ七九郎を継ぐ。官位は従五位下・筑後守。
略歴
[編集]父の康忠が数えで50歳の時の息子である。
慶長5年(1600年)第二次上田合戦では本多正信隊に属して従軍。慶長9年(1604年)、火の番頭となる。文禄2年(1593年)に父・康忠が没し、慶長18年(1613年)家臣の不祥事により改易となり、下野国足利に住む。しかし、大坂の陣に従軍し、伊達政宗隊に属した。
元和9年(1623年)に赦され、寛永元年(1624年)、武蔵国大谷領(現・上尾市、さいたま市北区)3000石を賜り、向山村(現・上尾市向山・向山神明社境内付近)に陣屋を置く。翌年徒頭となり、寛永3年(1626年)書院組頭となる。寛永10年(1633年)上総国長柄郡において700石加増される。同年小姓組番頭となり、寛永13年(1636年)、書院番頭となるも領地にて没する。墓所は今泉村(現・上尾市)の十連寺。
その後、康久、康利と続き、元禄11年(1698年)康利の代に丹波国に移封された。
参考文献
[編集]- 新訂寛政重修諸家譜巻第三百七十一