柳沼
歴史
[編集]柳沼氏 - 江戸時代
[編集]柳沼氏(やぎぬま)須賀川城に籠城した武将に柳沼与六左衛門正賢がいる。正賢の嫡男正朝と次男正秀は籠城戦で戦死し、正賢は落城後三男正清、四男氏具を伴って常陸に落ち、大乗院が須賀川に帰ったときに守屋館に居住して院に仕えたという。
その後正清は秋田久保田藩に仕え二百石を与えられたという。氏具は会津の蒲生秀行公より慶長八年(1603)召し出されて竜崎乙字ヶ滝の瀑布奉行を命じられ三十石を与えられたという。その系図では橘姓で楠正成の孫正元の後裔という。永禄八年(1565)織田信長によって伊勢国八田の居城を攻められ正具とその嫡男正賢父子は落ち延びて本願寺に一時入寂したが、その後正賢は陸奥国に移り白河の常瑞寺にとどまり白河晴綱の家臣となったという。元亀元年(1570)に故あって白河を去り和田城主須田美濃守の客将となり、同二年二階堂氏に認められて堤村(須賀川市字堤)の柳沼館主となり柳沼氏を称したという。面白いことに福島県南会津郡檜枝岐村に居住する橘氏の系譜では橘氏は伊勢国治田城主楠七郎左衛門正具が織田信長に敗れて、その二男橘好正がこの地に落ち延びて居住したことに始まるという。両者を比較するとほとんど同じ内容であり系譜として信憑性は高いのかもしれない。
幕紋・旗紋は菊水、家紋は輪違い・花菱・抓珠である。 ただ江幡家に伝わる古文書には二階堂為氏が出した竜崎城主内 柳沼内記宛の書状があり、前記の柳沼氏以外にもかなり以前からこの地方に柳沼氏が居住していたことがわかる。実際別の柳沼氏の系譜では藤原姓を称するものもある。それによれば中臣鎌足の十一代の後裔峯麿が大和国柳沼郷に居住して柳沼氏を称したという。
家紋は左三つ巴である。 また塩田氏系図によれば、細桙城主塩田右近大夫政繁の家臣に柳沼 静がいる。
明治以降
[編集]八木沼 丈夫(やぎぬま たけお、1895年(明治28年) - 1944年(昭和19年)12月12日)は、日本の陸軍軍属、歌人。日中戦争(支那事変)において日本軍が本格的に宣撫官を導入するきっかけとなった人物。
1895年(明治28年)、福島県東白川郡の小学校長の家に生まれる。旧制磐城中学に入学するも、学費を提供してくれていた親族が亡くなったため中退。1913年(大正2年)、志願兵として仙台の連隊に入営。除隊後後の1917年(大正6年)には中国大陸へ渡り、1919年(大正8年)に現地で結婚。1929年(昭和4年)、南満州鉄道に入社し、その後関東軍に配属される。
1933年(昭和8年)、満州事変における熱河省攻略作戦で、日本軍が初めて宣撫官を投入することが決まると、宣撫班の班長に任命される。その後も宣撫工作の最高指揮者として主導的な役割を担い続ける。また、宣撫官という呼称自体が八木沼の発案であり、かつて中国に存在した宣撫使という役職からとって名付けたものである。
地名・由来
[編集]柳沼 / 八木沼(やぎぬま/やなぎぬま)
- 日本の地名
- 青森県五所川原市広田字柳沼
- 福島県福島市瀬上町柳沼(やぎぬま)
- 福島県須賀川市堤字柳沼(やぎぬま)
- 福島県白河市表郷番沢字柳沼(やなぎぬま)
- 福島県耶麻郡北塩原村にある五色沼のうちの一つ。(やなぎぬま)
- 名字の由来
現奈良県である大和国柳沼郷が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。ほか芳賀氏(清原氏)系図にも見える。