柳沢徳忠
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(柳沢彰から転送)
柳沢徳忠 | |
時代 | 江戸時代末期 - 昭和時代 |
生誕 | 嘉永7年閏7月11日(1854年9月3日) |
死没 | 昭和11年(1936年)1月16日 |
改名 | 彰太郎(幼名)→徳忠 |
官位 | 従五位下、信濃守、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 越後三日市藩主→三日市藩知事 |
氏族 | 柳沢氏 |
父母 | 父:柳沢泰孝、母:松浦皓の娘 |
妻 | 浪子(堀直休の娘) |
子 | 徳鄰、貴子、春子、彰 |
柳沢 徳忠(やなぎさわ のりただ)は、越後三日市藩の第8代(最後)の藩主。7代藩主・柳沢泰孝の長男。母は松浦皓の娘。官位は従五位下、信濃守。幼名は彰太郎。
経歴
[編集]安政3年(1856年)4月4日、泰孝の死により家督を相続した。3歳であった。慶応4年(1868年)3月18日に江戸を出発し、4月6日に三日市へ到着した。藩財政が破綻を迎える中での、歴代藩主で初の入部であった、明治元年(1868年)7月28日、官軍に降伏した。同年8月21日、新潟で官軍を率いる小松宮彰仁親王に拝謁した。恭順後は新発田藩と軍事行動を共にしている。同年12月3日、従五位下・信濃守に叙任する。明治2年(1869年)6月21日、版籍奉還により三日市藩知事に就任する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]。昭和11年(1936年)に死去した。
栄典
[編集]家族
[編集]父母
妻
- 堀浪子 - 堀直休の娘
子女
- 柳沢徳鄰(1890年生) ‐ 長男。子爵。[3]
- 柳沢彰(1890年生) ‐ 荒川くわとの子。大蔵省営繕管財局技師、工務部技術課長。東京帝国大学建築学科卒、曾禰中條建築事務所に入ったのち大学院でも学び、1920年より都市計画地方委員会技師、都市計画中央委員会技師、内務技師、臨時震災救護事務局事務官、帝都復興院技師などを歴任し、1927年より営繕管財局に異動、1941年工務部課長。1922年には豪州・ニュージーランドに出張。岳父に伊藤滋。[3][4]
- 貴子(1876年生) - 荒川くわとの子。立花寛篤(立花鑑寛の四男)の妻。東京女高師付属高女出身。[3]
- 春子(1887年生) - 荒川くわとの子。米田国臣の妻。東京女高師付属高女出身。[3]
脚注
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (三日市)柳沢家初代 1884年 - 1936年 |
次代 柳沢徳鄰 |