柳下重治
柳下 重治 | |
---|---|
生誕 |
1886年11月3日 日本 東京府 |
死没 | 1953年 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1907年 - 1939年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
柳下 重治(やなぎした しげはる[1]、1886年(明治19年)11月3日[2] - 1953年(昭和28年)[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]東京府出身[2]。陸軍士官学校第19期、陸軍大学校第26期卒業[2]。1922年(大正11年)8月、陸軍歩兵少佐に進級し[3]、1923年(大正12年)9月時点で参謀本部部員の任にあった[3]。1926年(大正15年)8月、陸軍歩兵中佐に進級し[4]、1927年(昭和2年)1月に歩兵第78連隊附となった[5]。1928年(昭和3年)3月、近衛師団参謀に転じ[6]、1929年(昭和4年)9月に陸軍技術本部附となった[7]。
1931年(昭和6年)8月1日、陸軍歩兵大佐進級と同時に第16師団司令部附となり[1]、京都帝国大学に配属された[1]。1933年(昭和8年)8月に歩兵第14連隊長(第12師団・歩兵第12旅団[8][9])[1]、1934年(昭和9年)8月に第19師団参謀長と歴任した[1]。
1936年(昭和11年)3月7日、陸軍少将進級と同時に歩兵第10旅団長に着任し[1][2]、1937年(昭和12年)8月に憲兵司令部総務部長に転じた[2]。1938年(昭和13年)8月に独立混成第3旅団長(北支那方面軍・第1軍[10][11][12])に就任し[2]、日中戦争に出動[13]。北部山西省の守備に任じ[13]、山西省の各種作戦に参加した[13]。1939年(昭和14年)3月9日、陸軍中将に進級[1]、10月2日に参謀本部附となり[2]、12月1日に待命[2]、12月28日に予備役に編入された[2]。
予備役編入後は職長教育指導協会総務理事[14]、恩給金庫理事などを務め[15]、1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[16]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 外山 1981, 242頁.
- ^ a b c d e f g h i j 福川 2001, 736頁.
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正12年9月1日調200頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正15年9月1日調157頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和2年9月1日調152頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和3年9月1日調138頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和5年9月1日調122頁
- ^ 外山・森松 1987, 394頁.
- ^ 外山・森松 1987, 395頁.
- ^ 外山・森松 1987, 499頁.
- ^ 外山・森松 1987, 501頁.
- ^ 外山・森松 1987, 503頁.
- ^ a b c 外山・森松 1987, 504頁.
- ^ 日本文化中央聯盟 1943, 310頁.
- ^ 朝日新聞社 1943, 569頁.
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 日本文化中央聯盟 編『日本文化団体年鑑 昭和18年版』日本文化中央聯盟、1943年。
- 朝日新聞社 編『朝日年鑑 1944年版』朝日新聞社、1943年。