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柏木貨一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柏木 貨一郎(かしわぎ かいちろう、天保12年1月16日1841年2月7日) - 明治31年(1898年9月6日)は、明治時代好古家(古美術鑑定家・収集家)、工匠。名は政矩。号は探古、探古斎。

江戸(東京)出身。神田和泉橋の糸屋・辻家に生まれる。幕府の大工棟梁・柏木家の養子となり、9代目を継ぐが、まもなく幕府が倒れた。明治維新後は文部省に勤務し、町田久成らとともに正倉院をはじめ古社寺の宝物調査にあたった。町田が博物館行政から離れた後、官職を辞したようである。

古美術の鑑定家、収集家として知られ、龍池会の創設にも関わった。著作に「集古印史」などがあり、奈良時代から近世までの物価や賃金に関する著作の草稿も残している。

また、工匠として三井集会所(1894年)[1]益田孝邸、渋沢栄一邸など和風建築や茶室の設計を行った。

大隈重信の妻の大隈綾子が大隈に嫁ぐ前の綾子の夫だった。

1898年、上根岸の自宅から王子渋沢栄一邸に向う途中、法隆寺の古材で作った下駄が線路に挟まり、それを取ろうとして汽車に接触し死亡した[2]

なお急激な脳震盪により線路脇に卒倒し、数日後に亡くなったという説もある[3]

エピソード

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集古会誌「壬子」2号(1913年9月刊)には、奈良あたりで柏木が玉篇をわずか1円半で入手したという話が、西村兼文逸話の中で語られている[4]。明治維新後の廃仏毀釈の政策下で、仏典・古書籍が寺院から流失していく様が分かる、

「如是我開爺兼文氏が贋作せしはただにこがね欲しくてせしにはあらで、その富貴貪婪の極 傍ら古書画奇籍に及ぶの輩を懲らすを快しとしたるなりと。 そのころ奈良辺には夥しく古写経のありし時にて天平経にても二円半位なりしかば表紙 が原のまゝならではとか、あまりに太きは妙ならずとか色々贅をいいしものなり。柏木探古氏の在りし時など、仏教にては面白からずとて彼の玉篇を手に入れられしなり、然もその価わずかに一円半なりというに至つては今の人々は定めて驚かるるなるべし」。

著作

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参考文献

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  • 山口昌男「日本近代における経営者と美術コレクションの成立 : 益田孝と柏木貨一郎」『比較文化論叢 : 札幌大学文化学部紀要』第3号、札幌大学、1999年3月、7-53頁、ISSN 13466844NAID 110004041315 
  • 近江栄, 大川三雄, 向後慶太「近代和風建築を支えた工匠に関する史的研究」『住宅総合研究財団研究年報』第18巻、住総研、1992年、117-128頁、doi:10.20803/jusokennen.18.0_117 

出典

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  1. ^ 東京名所図会(第1)(麹町区之部)睦書房、1969年https://dl.ndl.go.jp/pid/9640998/1/24 
  2. ^ 研究小話「目利きの系譜II―下駄の話―」谷内克聡、群馬の森美術館ニュース170号、群馬県立近代美術館、2017 10/1、p3
  3. ^ 「益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち」松田延夫、里文出版、2002
  4. ^ 西京繁人 (1913-09). “補西村兼文逸話(庚戌巻五参照)”. 集古会誌 (集古会) 壬子 (2): 2 - 3. https://dl.ndl.go.jp/pid/1589016/1/3.