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枝松千葉助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
枝松 千葉助
生誕 (1835-08-15) 1835年8月15日
(天保6年7月21日)
足守藩(現在の岡山県)
死没 (1918-02-21) 1918年2月21日(82歳没)
(大正7年2月21日)
死因 病死
国籍 日本の旗 日本
別名 枝松重愼
職業 足守藩士
足守藩武道指南番
流派 起倒流柔道楊心流柔術
北辰一刀流、田宮流居合
荻野流砲術、日置流弓術
種田流槍術
子供 枝松十郎
枝松十郎右衛門
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枝松 千葉助1835年 - 1918年)は、日本武術家である。足守藩武道指南番を務め藩主や藩士に武芸の指導を行った。

経歴

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1835年8月15日(天保6年7月21日)足守藩士の枝松十郎右衛門の長男として生まれる。父の枝松十郎右衛門は、足守藩武道指南番を務めていた。

枝松千葉助は荻野流砲術を荻野房之進、田宮流居合を石原團之進、日置流弓術を吉田兵太夫、大坪流馬術を柴崎左司馬、種田流槍術を津田作左衛門より学ぶ。また一刀流起倒流を枝松十郎右衛門から学び全ての免許を得た[1]

1852年(嘉永5年)藩命により江戸に上り、神田明神下の竹中元之進竹中鉄之助より起倒流柔道、芝西久保の戸塚彦介より戸塚派楊心流、麻布永坂の森要造より北辰一刀流を学び免許皆伝を受けた。

1855年(安政2年)帰藩して足守藩の武道指南番となった。

1860年(万延元年)四国九州中国京畿各地の剣柔師範を訪問し試合を行った。

1918年2月21日(大正7年2月21日)に病没[2]


脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 田中誠一 編『備作人名大辞典 坤卷』備作人名大辞典刊行会、1937年
  2. ^ 永山卯三郎 編『吉備郡史 下巻』名著出版、1971年 p3472

参考文献

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