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林鍾国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
林鍾国
各種表記
ハングル 임종국
漢字 林鍾國
発音: イム・ジョングク
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林 鍾国[1](イム・ジョングク、朝鮮語: 임종국/林鍾國1929年10月26日[2] - 1989年11月12日[1])は、大韓民国詩人評論家歴史家

父は東学指導者の林文虎朝鮮語版

経歴

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日本統治時代の慶尚南道昌寧郡出身[3]。京城公立農業学校(現・ソウル市立大学校)、高麗大学校政治外交学科卒(1954年に中退後1968年に再入学し、1969年に卒業)[4]。コデムヌァより『李箱論』を出版後、1956年にテソン社より『李箱全集』を出版したことで文壇に登場した。1957年から2年間シング文化社に勤務し[5]、1959年に文学芸術で『碑』を発表し、1960年に思想界朝鮮語版で『自画像』などが推薦され、詩壇に登場した。1966年に平和出版社より『親日文学論』を出版し、当時大名を得ていた文人らが過去に行った親日行為を世の明るみに出した。戒厳下、著作物が押収されたり写真が使用禁止となったりした。女性雑誌で執筆活動などを行いながら、1968年には中退した高麗大学校に再入学し、1969年に卒業した。1980年には療養と執筆に専念するため天安近郊に移住した。1981年に『挺身隊実録』、1982年に『日帝侵略と親日派』、1984年に『夜の日帝侵略史』、1985年に平和出版社より『日帝下の思想弾圧』、1986年に『親日文学作品選集』、1987年に『親日論説選集』、1988年から1989年に計2巻の『日本軍の朝鮮侵略史』を出版した。晩年には一人でソウルに移住し、韓国国立中央図書館を毎日のように利用していた[6]。全10巻を予定していた『親日派叢書』の執筆中、1989年に順天郷病院にて肺気腫により死去、享年60[1][7][8]

死後

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遺体は天安公園墓園舞鶴地区に埋葬された[9]。2年後の1991年2月27日に前身となる反民族問題研究所(現・民族問題研究所)が設立され、1994年に親日人名事典を出版する計画を発表し、2009年11月8日に『親日人名事典』が発表された。また、2005年10月15日には宝冠文化勲章が追叙された[10]

エピソード

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著作

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  • 『日帝侵略と親日派』

ほか多数

脚注

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  1. ^ a b c 文学(문학)평론가 林鍾國(임종국)씨別世(별세)”. NAVER Newslibrary. 2024年9月19日閲覧。
  2. ^ 민족문제연구소 (2019年2月22日). “임종국, 친일파 연구의 선구자” (朝鮮語). 민족문제연구소. 2024年9月19日閲覧。
  3. ^ 임종국 선생의 생애와 업적” (朝鮮語). 중부매일 - 충청권 대표 뉴스 플랫폼 (2017年11月19日). 2024年9月19日閲覧。
  4. ^ 임종국님을 아시나요?” (朝鮮語). 오마이뉴스 (2004年1月19日). 2024年9月19日閲覧。
  5. ^ 박종찬 (2005年8月30日). “친일사전 편찬 뒤엔 ‘넝마주이 사학자’ 있다” (朝鮮語). 한겨레. 2024年9月19日閲覧。
  6. ^ a b 民族問題研究所”. minjokjp.cafe24.com. 2024年9月19日閲覧。
  7. ^ 친일파 연구의 보배된 '넝마주이'” (朝鮮語). 오마이뉴스 (2001年11月9日). 2024年9月20日閲覧。
  8. ^ 임종국, 벼랑 끝에서도 꼿꼿했던 '외골수'” (朝鮮語). 오마이뉴스 (2016年10月18日). 2024年9月20日閲覧。
  9. ^ 민족문제연구소 (2021年6月8日). “[중부매일 임종국 선생 기념관 건립 본격 추진]” (朝鮮語). 민족문제연구소. 2024年9月20日閲覧。
  10. ^ 임종국, 벼랑 끝에서도 꼿꼿했던 '외골수'” (朝鮮語). 오마이뉴스 (2016年10月18日). 2024年9月20日閲覧。
  11. ^ 자기 아버지 '친일'까지 기록 일본인 교수 "임종국은 무서운 사람"” (朝鮮語). 오마이뉴스 (2016年8月23日). 2024年9月20日閲覧。