林翔
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林 翔(はやし しょう、1914年1月24日 - 2009年11月9日)は、日本の俳人。本名は林 昭[1](はやし しょう)。
人物
[編集]長野県長野市生まれ[1]。生後10ヶ月で母と死別し、5歳まで祖母に養われる。國學院大學を卒業。大学在学中に能村登四郎と知り合い[1]、登四郎とともに短歌雑誌「装填」の同人となるが、同誌の廃刊後ともに俳句に転じた。1939年から1982年まで旧制私立市川中学(現・市川高等学校)に勤務[1]。1940年、水原秋櫻子の「馬酔木」に初入選[1]。この頃から「翔」を俳号に用いた[1]。1950年「馬酔木」同人となる[1]。1962年、現代俳句協会を脱会し、俳人協会に加入する[1]。1970年、登四郎が「沖」を創刊すると編集主幹に就く[1]。1983年より副主宰。2001年、登四郎が息子の能村研三に主宰を譲ってからは、同誌の最高顧問となった。
1945年に東京大空襲を受けて市川市八幡に転居し、1979年に同市大野町に転居[2]。
句集に『和紙』『寸前』『石笛』『幻化』『春菩薩』『あるがまま』『光年』などがある。1971年『和紙』で第10回俳人協会賞[1]、2005年『光年』で第20回詩歌文学館賞受賞。俳人協会顧問も務めた。
2009年11月9日、膵臓癌により死去。95歳。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j “林 翔|市川市公式Webサイト”. 市川市公式Webサイト. 市川市. 2023年2月17日閲覧。
- ^ 大町・大野町界隈 市川市 (2024年11月13日閲覧)
参考文献
[編集]- 林翔 『光年』 ふらんす堂、2004年
関連文献
[編集]- 『林翔の一〇〇句を読む』 飯塚書店、2011年