林田騰九郎
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林田 騰九郎(はやしだ とうくろう、1843年10月14日(天保14年9月21日) - 1899年(明治32年)9月5日)は、明治時代滋賀県の政治家。
生涯
[編集]1843年10月14日((旧暦)天保14年9月21日)、近江国甲賀郡相模村(現甲賀市)に生まれる。1872年(明治5年)甲賀郡第7区副区長、1874年(明治7年)同区長に選ばれ、地租改正時には甲賀郡総代として地価軽減運動に奔走した。1880年(明治13年)、第一回県議会が大津南町(源大津市)顕證寺において開かれ、騰九郎は甲賀郡選出県会議員として参加した[1][2]。1884年(明治17年)4月9日の県会において騰九郎は「農商学校」設立建議案を提出し、これが後の滋賀県立商業(現滋賀県立八幡商業高等学校)設立に繋がる。なお同年6月23日互選により中小路与平治・岡田逸治郎・山岡桃庵等と共に常置委員に騰九郎は初めて選ばれた[3]。
1889年(明治22年)4月1日町村制以降に伴い甲賀郡大原村(現甲賀市)初代村長に就任した[2]。その後1891年(明治24年)3月第1回衆議院議員総選挙に滋賀県第2選挙区(栗太郡・野洲郡・甲賀郡)より出馬するが落選。1892年(明治25年)2月15日第2回衆議院議員総選挙において初当選を果たしたが[1][2]、1894年(明治27年)3月1日第3回衆議院議員総選挙において立憲自由党の岡田逸治郎に僅か38票差で破れ落選した[4]。この間、私費を投じて湖南日報を発行し住民の啓蒙活動にも勤めたが、1899年(明治32年)9月5日死去した。