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松平康載

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
板倉勝観から転送)
 
松平康載
『武家華族名誉伝 下』
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 嘉永7年10月11日1854年11月30日
死没 大正12年(1923年9月30日
改名 錦之進(幼名)、松平康載、松井康載、戸田央、板倉央、板倉勝観
官位 従五位下周防守、従五位、子爵
主君 明治天皇
武蔵川越藩主(藩知事
氏族 戸田(松平)氏松井(松平)氏板倉氏
父母 父:松平光庸
養父:松平康英
兄弟 小笠原長国光則内藤政恒戸田光芬戸田光遠野々山義比康載、貞、孝ら
板倉花子
板倉勝央(板倉家を継ぐ)
養子:松井康義(松井家を継ぐ)
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松平 康載(まつだいら やすとし)は、武蔵国川越藩の第2代(最後)の藩主(知藩事)。松井松平家13代。のち同家を離れ、旧上野国安中藩主・板倉家を継いで板倉 勝観(いたくら かつみ)を名乗り、子爵となった。

略歴

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嘉永7年(1854年)10月11日、信濃国松本藩の前藩主[注 1]松平光庸の九男として誕生した[1]慶応4年(1868年)8月29日、川越藩主・松平康英松井松平家)の養子となる。明治2年(1869年)4月10日、康英の隠居により家督を相続し、版籍奉還を願い出た。同年6月10日、従五位下・周防守に叙任される。同年6月25日、版籍奉還に伴い、川越藩知事に任じられた。藩政改革に着手し、また、康英の代に収公された2万石の返還がなったが、財政難を克服することは出来なかった。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で知藩事職を免官された。その後、松平姓から松井姓に改め松井康載を名乗る。明治12年(1879年)3月15日、隠居し、家督を養子の松井康義(先代・康英が隠居後にもうけた次男)に譲った。明治13年(1880年)4月14日、位記を返上し、実家の戸田家(こちらも松平姓から改めた)に戻った。実家に復籍後、戸田央と称した[1]

明治19年(1886年)2月9日、板倉花子(上野安中藩主板倉勝殷の三女。前板倉勝任夫人)と結婚し、板倉家に入籍する。同年4月6日、板倉家の家督を相続する[1][2]。同年4月9日、板倉勝観と改名する[3]。板倉家は花子が女戸主のため、叙爵が遅れていたが、同年4月10日に従五位に、同年4月24日に子爵に叙せられた[注 2]

栄典

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系譜

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父母

夫人

子女

養子

脚注

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注釈

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  1. ^ 松平光庸は、弘化2年(1845年)に家督を康載の次兄である松平光則に譲って隠居していた。なお、長兄は天保11年(1840年)に唐津藩小笠原家を継いだ小笠原長国、三兄は安政2年(1855年)に湯長谷藩内藤家を継いだ内藤政恒である。
  2. ^ 勝殷が明治5年(1872年)に隠居してから勝観が家督を相続するまでの14年間の板倉家は、勝観以前に2人いた入婿がいずれも一旦は当主を継ぐも短期間で隠居し、また彼らの妻であった勝殷の娘2人が相次いで女戸主になるなど、複雑な経緯をたどっている。詳細は板倉勝殷#晩年から死後の家督相続を参照。

出典

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  1. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成 上巻』141頁。
  2. ^ 『官報』第826号、明治19年4月7日。
  3. ^ 『官報』第830号、明治19年4月12日。
  4. ^ 『官報』第831号、明治19年4月13日。
  5. ^ 『官報』第842号、明治19年4月26日。
  6. ^ 『官報』第1782号「叙任及辞令」1918年7月11日。

参考文献

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
安中板倉家初代
1886年 - 1923年
次代
板倉勝央
当主
先代
板倉花子
安中藩板倉家
板倉勝観
1886年 - 1923年
次代
板倉勝央
先代
松平康英
松井松平家
13代 松平康載/松井康載
1869年 - 1879年
次代
松井康義