松面古墳
松面古墳 | |
---|---|
跡地付近 | |
別名 | 元新地古墳 |
所属 | 祇園・長須賀古墳群 |
所在地 | 千葉県木更津市朝日2丁目 |
位置 | 北緯35度23分6.20秒 東経139度56分0.45秒 / 北緯35.3850556度 東経139.9334583度座標: 北緯35度23分6.20秒 東経139度56分0.45秒 / 北緯35.3850556度 東経139.9334583度 |
形状 | 方墳 |
規模 | 44.2m×45.3m |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室 |
出土品 | 装飾付大刀ほか副葬品多数・須恵器・土師器・修羅 |
築造時期 | 7世紀初頭 |
史跡 | なし |
特記事項 |
方墳としては千葉県第3位 墳丘は非現存 |
地図 |
松面古墳(まつめんこふん)は、千葉県木更津市朝日にあった古墳。形状は方墳。祇園・長須賀古墳群を構成した古墳の1つ。現在では墳丘は失われている。
本項では、松面古墳の南にあった塚の腰古墳についても解説する。
概要
[編集]千葉県中部、小櫃川下流域左岸の沖積地に築造された大型方墳である。南には大溝(2号溝)を挟んで塚の腰古墳が所在した。1938年(昭和13年)に石室が発掘・調査され副葬品が出土しているほか、調査後に削平され埋没古墳となり、2005・2010・2014年度(平成17・22・26年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は方形で(調査前は小円墳とされた)、東西44.2メートル・南北45.3メートルを測り、方墳としては千葉県内で第3位の規模になる[1]。墳丘周囲には周溝・外周溝が巡らされており、周溝を含んだ規模は約69.5メートル、外周溝を含んだ規模は約84.5メートルにおよぶ[1]。周溝からは木製品(鋤先・柄・杭・修羅・刀形など)が出土しており、特に修羅は古墳築造に際して石材を運搬するもので、三ツ塚古墳(大阪府藤井寺市)に次ぐ国内2例目として注目される。埋葬施設は両袖式の横穴式石室。石室の石材は軟質砂岩の切石で、床面は板石敷であったという[1]。病院に伝わった石棺が使用された可能性があるが、他の記録には記載がなく明らかでない[1]。1938年(昭和13年)の発掘では、石室内から装飾付大刀・武器・装飾品・馬具・須恵器・土師器など多数の副葬品が出土している。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀初頭頃(TK209型式期)と推定される[1]。祇園・長須賀古墳群では金鈴塚古墳(木更津市長須賀)に後続し、塚の腰古墳に先行する首長墓と想定され、房総では代表的な終末期古墳の1つとして重要視される古墳になる。
遺跡歴
[編集]- 1909年(明治42年)、開墾(または県道の土砂採取)に伴う塚の腰古墳の発掘(『千葉縣君津郡誌』上巻、『長須賀郷土史』、『木更津市史』)[1]。
- 出土品:土地所有者の保管後、1972年(昭和47年)に直刀以外は千葉県立上総博物館へ寄贈、現在は木更津市郷土博物館金のすず保管[1]。
- 1938年(昭和13年)、旧君津病院建設に伴う松面古墳の緊急調査。調査後整地(菅生遺跡調査団)[2]。
- 2005年度(平成17年度)、土壌改良及び埋設物撤去工事に伴う松面古墳の確認調査(木更津市教育委員会、2006年に報告)[1]。
- 2010年度(平成22年度)、土壌改良及び埋設物撤去工事に伴う松面古墳・塚の腰古墳の確認調査(木更津市教育委員会、2013年に報告)[1]。
- 2014年度(平成26年度)、土壌改良及び埋設物撤去工事に伴う松面古墳・塚の腰古墳の本調査(木更津市教育委員会、2016年に報告書刊行)[1]。
出土品
[編集]1938年(昭和13年)の発掘による出土品は次の通り[1]。人夫発掘品は木更津警察・千葉県を介して東京国立博物館が購入・保管し、調査団出土品は國學院大學へ移送・保管されており、東京国立博物館・國學院大學博物館の各所蔵品にT・Kを付して掲載する[1]。
- 飾大刀
- 金銅装双龍環頭大刀 1(T)
- 金銅装大刀 1(所在不明)
- 銀装捩環頭大刀柄頭 1(T)
- 金銅製鞘飾金具残片 一括(T)
- 頭椎大刀柄頭 1(所在不明)
- 武器
- 直刀 2以上(T) - 金銅製鞘飾金具残片の刀身部か。
- 鉄鉾身・石突(K)
- 銀製弭(Kか)
- 鉄鏃(T・K)
- 装飾品
- 金銅製双魚佩 1対(T)
- 金銅製ガラス玉付木葉形腰佩 1対(K)
- 金銅製方形花形飾金具 9(K)
- ガラス小玉 - 木葉形腰佩のものか。
- 馬具
- 金銅製鉸具付心葉形杏葉 2(T)
- 金銅装鞍磯金具 3組(T1、K2)
- 金銅製覆輪残片 6(T)
- 鉄製壺鐙残欠 1対(T)
- 鉄地金銅張革留金具 6(T)
- 銅椀 1(K)
- 須恵器 - 坏蓋3、坏身3以上、有蓋高坏5、高坏蓋4、無蓋高坏2、脚付長頸壺2、長頸壺蓋1、脚付坩片1、甕1(いずれもT)。
- 土師器 - 坏1、甕3(いずれもT)。
塚の腰古墳
[編集]塚の腰古墳 | |
---|---|
跡地付近 | |
別名 | 塚の越古墳 |
所属 | 祇園・長須賀古墳群 |
所在地 | 千葉県木更津市朝日2丁目 |
位置 | 北緯35度23分3.00秒 東経139度56分1.00秒 / 北緯35.3841667度 東経139.9336111度 |
形状 | 方墳 |
規模 | 一辺39.5m |
埋葬施設 | 不明 |
出土品 | 銅鏡・直刀・鉄鏃・馬具・須恵器ほか |
築造時期 | 7世紀前半 |
史跡 | なし |
特記事項 | 墳丘は非現存 |
塚の腰古墳(つかのこしこふん、塚の越古墳)は、松面古墳の南にあった古墳。形状は方墳。祇園・長須賀古墳群を構成した古墳の1つ。現在では墳丘は失われている。
概要
[編集]松面古墳の南、大溝(2号溝)を挟んで築造された大型方墳である。1909年(明治42年)に発掘され副葬品が出土しているほか、2005・2010・2014年度(平成17・22・26年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は方形で(調査前は小円墳とされた)、一辺約39.5メートルを測った。墳丘周囲には周溝・外周溝が巡らされており、周溝を含んだ規模は約61.0メートル、外周溝を含んだ規模は約73.5メートルにおよぶ[1]。埋葬施設は失われているため明らかでない[1]。1909年(明治42年)の発掘では、副葬品として銅鏡・直刀・鉄鏃・馬具・須恵器などが出土している。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀前半頃(TK217型式期)と推定される。祇園・長須賀古墳群では松面古墳に後続する首長墓と想定される[1]。
出土品
[編集]1909年(明治42年)の発掘による出土品は次の通り[1]。
- 仿製四獣鏡 1 - 直径10.75センチメートル、約3分の1を欠く。鳥屋場1号墳出土鏡(長野県飯田市)と近似。
- 金銅製鞍磯金具 1
- 直刀 1
- 琥珀玉 1
- ガラス小玉 2
- 須恵器 - 長頸壺1。
『長須賀郷土史』によれば、鉄鏃も出土したと見られる[1]。以上の出土品のうち、直刀・鉄鏃を除いたものは土地所有者の保管後、千葉県立上総博物館を経て、現在は木更津市郷土博物館金のすずで保管されている[1]。
関連施設
[編集]- 木更津市郷土博物館金のすず(木更津市太田) - 塚の腰古墳の出土品を保管。
- 東京国立博物館(東京都台東区) - 松面古墳の出土品を保管。
- 國學院大學博物館(東京都渋谷区東、國學院大學渋谷キャンパス内) - 松面古墳の出土品を保管(常設展示なし)。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 小沢洋「松面古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 「松面古墳」『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』平凡社、1996年。ISBN 4582490085。
- 「祇園・長須賀古墳群」『千葉県の歴史 資料編 考古2(県史シリーズ10)』千葉県、2003年。
- 『千葉県木更津市 塚の腰古墳・松面古墳発掘調査報告書(木更津市埋蔵文化財発掘調査報告書 第13集)』木更津市教育委員会、2016年。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 松面古墳
- 稲木章宏「松面古墳発掘調査」『木更津市文化財調査集報』第11号、木更津市教育委員会、2006年。
- 酒巻忠史「松面古墳関連資料」『木更津市文化財調査集報』第11号、木更津市教育委員会、2006年。
- 酒巻忠史「松面古墳出土双魚佩の図上復元」『木更津市文化財調査集報』第14号、木更津市教育委員会、2009年。
- 井上賢「平成21年度の発掘調査」『木更津市文化財調査集報』第15号、木更津市教育委員会、2011年。
- 井上賢「平成22年度の発掘調査」『木更津市文化財調査集報』第15号、木更津市教育委員会、2011年。
- 松本勝「平成23年度の発掘調査」『木更津市文化財調査集報』第17号、木更津市教育委員会、2013年。
- 塚の腰古墳
- 杉山晋作「木更津市 '塚の越古墳' 出土遺物」『MUSEUMちば』第4号、千葉県博物館協会、1974年。
- 稲木章宏「塚の腰古墳出土資料について」『木更津市文化財調査集報』第17号、木更津市教育委員会、2013年。