松竹セントラル
松竹セントラル Shochiku Central | |
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情報 | |
正式名称 | 松竹セントラル |
完成 | 1956年9月14日 |
開館 | 1956年9月15日 |
開館公演 | 『山』(エドワード・ドミトリク監督)[1] |
閉館 | 1999年2月11日 |
最終公演 |
SC1:『ラッシュアワー』(ブレット・ラトナー監督) SC2:『ムトゥ 踊るマハラジャ』(K・S・ラヴィクマール監督) SC3:『二十四の瞳』(木下恵介監督) |
収容人員 | (3スクリーン)1,758人 |
設備 | DOLBY STEREO |
用途 | 映画上映 |
運営 | 松竹株式会社 |
所在地 |
〒104-0045 東京都中央区築地1丁目13-5 (開館当時の同区銀座3-8) |
最寄駅 | 東銀座駅 |
最寄バス停 | 都営バス「築地」停留所 |
最寄IC | 首都高速都心環状線銀座出入口 |
松竹セントラル(しょうちくセントラル・SHOCHIKU CENTRAL)とは、1956年(昭和31年)9月15日から1999年(平成11年)2月11日まで東京都中央区築地一丁目にあった映画館。
松竹が運営しており、松竹系のチェーンマスター館であった。現在、跡地には銀座松竹スクエアが建っている。
歴史・概要
[編集]松竹本社のお膝元にあった松竹系の映画館。丸の内ピカデリー、丸の内松竹(後の丸の内プラゼール、現在は丸の内ピカデリーDolby CINEMA)、東劇(東京劇場)と同様、銀座・有楽町地区の松竹系のチェーンマスター館であった。
1956年9月15日、松竹の本社が入居する松竹会館の竣工と同時に松竹会館内に開業。こけら落としはスペンサー・トレイシー主演の『山』[1][2]。開業当初は洋画系ロードショー館の松竹セントラル劇場、松竹配給の邦画を上映する松竹中央劇場、東宝系の映画を上映する築地東宝、名画を上映する松竹名画座の4館があり[1][3]、4階には100畳敷きの稽古場が設けられていた[4]。
1966年ごろには4館あった映画館が3館になり、松竹セントラル、築地日活、築地大映の3館になる。[3]
1975年ごろにはキャパ1000を超える洋画系の松竹セントラル、キャパ400程度の邦画系の銀座松竹劇場、キャパ200席程度のアート系上映館の銀座ロキシーがあった[3]。松竹セントラルでは1970年代から1980年代にかけて『スティング』『タワーリング・インフェルノ』『ジョーズ』『スーパーマン』『ブレードランナー』『E.T.』『戦場のメリークリスマス』『グレムリン』『グーニーズ』等の大作・話題作を多数輩出した。
1985年春、銀座ロキシーは松竹シネサロンに名称変更し、名画座として特集上映企画を開催[3]。それから2年半後の1987年10月3日、有楽町マリオン新館内に丸の内ルーブルと丸の内松竹が新設されたことにより、松竹セントラルは渋谷パンテオンから渋谷東急系列へとチェーンを鞍替えし、『あぶない刑事シリーズ』[注 1]『魔女の宅急便』『天と地と』等東映洋画系の作品も上映するようになる。翌1988年12月に全スクリーンを松竹セントラル1・2・3に名称統一し、セントラル3は小規模系のロードショー作品上映へとシフトする[2]。
1990年代には『羊たちの沈黙』『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』『トゥルー・ロマンス』『河童』『ショーシャンクの空に』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』等のヒットもあったが、1998年1月の奥山融社長と奥山和由取締役解任に伴う松竹の体制変更[5]や、銀座方面の再開発[6]も重なり、1999年2月11日付で松竹セントラル3スクリーンを全て閉館[2][7][8]。松竹の本社機能は東劇ビルへと移され、42年半近い歴史の幕を閉じた。その後2002年(平成14年)10月、松竹会館跡地に地上23階・地下2階建ての銀座松竹スクエア[注 2]が竣工し、現在に至る。
各映画館の概要
[編集]松竹セントラル→松竹セントラル1
[編集]定員1,156席の大劇場。主に松竹東急系の洋画を上映。緞帳には山下清の「両国の花火」があしらわれ[11]、入口ロビー内には岡本太郎の壁画「青春」が展示されていた[12]。渋谷パンテオンや新宿ミラノ座などとチェーンを組み数々のヒット作を輩出。閉館後ここで上映してた作品は隣にあった東劇でも上映された。かつてはスーパーシネラマ方式での上映を行なっていた[7]また、松竹セントラル2が大映系の封切り館であった時代は松竹系邦画のチェーンマスター館となっていた。[3]
松竹中央劇場→銀座大映→銀座松竹→松竹セントラル2
[編集]定員417席、松竹系の邦画作品を上映。新宿ピカデリーなどとチェーンを組み、男はつらいよなどの名作のチェーンマスター館となった。[7]一時期銀座大映として大映系の映画を上映。[3]
松竹名画座→銀座日活→銀座ロキシー→松竹シネサロン→松竹セントラル3
[編集]定員185席、シネマスクエアとうきゅうなど同様アート系作品やミニシアター系作品や松竹系の洋画を上映。[7]一時期銀座日活として日活系の映画を上映。[3]
築地東宝
[編集]座席数詳細不明。東宝系の映画館であった。[3]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『映画年鑑 1961』時事通信社、1961年
- ^ a b c 『松竹百十年史』松竹、2006年
- ^ a b c d e f g h “消えた映画館の記憶 東京都中央区の映画館”. 2024年8月10日閲覧。
- ^ “松竹と町のつながり「東銀座地区」”. 松竹株式会社. 2024年8月12日閲覧。 “松竹会館”
- ^ 創業手帳『カンヌ受賞「うなぎ」、国民的映画「ハチ公物語」、北野武監督デビュー作など数多くの映画を手掛け、今なお走り続ける日本を代表する映画プロデューサー奥山和由から企画の実現力を学ぶ』(インタビュアー:大久保幸世)、創業手帳株式会社、2024年3月22日 。2024年8月13日閲覧。
- ^ “銀座まちづくりヴィジョン(1998 - 1999)” (PDF). アーバン・ハウス都市建築研究所. 2024年8月13日閲覧。
- ^ a b c d “平成11年のラストショー”. 平成ラストショーhp. 2024年8月13日閲覧。 “松竹セントラル”
- ^ “懐かしの映画館「松竹セントラル」”. いいことがたくさんありますように. 2024年8月13日閲覧。
- ^ “ADK松竹スクエア”. 隈研吾建築設計事務所. 2024年8月12日閲覧。
- ^ “銀座松竹スクエア(築地松竹ビル)”. 松竹株式会社. 2024年8月13日閲覧。
- ^ 山下清『日本ぶらりぶらり』筑摩書房、1957年、120-122頁。「松竹セントラル劇場」
- ^ “岡本太郎・モザイクタイル「青春」の下絵、岐阜県で発見-公開へ”. シブヤ経済新聞. (2008年12月2日) 2024年8月13日閲覧。